3-2 弟
「――この先を進めば、父の書斎になります。父は機械に目がなく、あの部屋には沢山のコレクションが眠っています。ただ、父は勝手に書斎に入られるのをひどく嫌いますから、お二人が行く機会は少ないかもしれません」
「へえ」
アトラは興味深そうに相槌を打つ。
「では、最後にお二人の部屋をご案内いたしますね」
「え、部屋を用意してもらえるんすか? 兵士宿舎とかじゃなくて?」
「はい。お二人は私専属の護衛ですので、この邸宅で生活していただきます」
中庭からグラントが運び出された後も、レントは、「アトラ殿を護衛にするのは再考すべきです」と不服を申し立てていた。
が、最後はアヤメが毅然とした態度で押し切ったことで、アトラとロイの二人は正式に彼女の専属護衛として召し抱えられることになった。
そして今、二人はアヤメ自らに、広大な邸宅内を案内されている最中だった。
絨毯の敷かれた長い廊下を歩きながら、アヤメがどこか躊躇いがちに口を開いた。
「あの……一つ、お聞きしてもよろしいでしょうか?」
「ん、俺ですか? いいですよ。答えられることなら、なんでも」
「その綺麗な黒髪……もしかして、アトラ様もカミノの血を引いていらっしゃるのでしょうか?」
「まあ……そうですね。少しややこしいんですけど、父がカミノ人で、母がグラキエとアルトリアのハーフなんです。珍しい血筋でしょう?」
「へえ! そうだったんですね!」
「ええ、だからこう見えても、色々な国の言葉ペラペラなんですよ」
「なら、カミノ語もお話しになられますかっ?」
アヤメは足を止め、ぐっと前のめりになる。
その翡翠の瞳は嬉しそうに輝いている。
「ええ、まあ……」と、アトラは彼女の予想以上の熱量に、少し引き気味になりながら答えた。
「カミノに住んでいたこともありますから」
「羨ましいです! 私は、母の故郷の国であるにもかかわらず、未だにカミノの言葉を話せなくて。
……今も、一人で勉強しているのですけれど、なかなか難しくて」
「今も勉強を? ……でも、カミノはもう、滅んだ国でしょう」
アトラはあくまで何気ないのを装って、その言葉を淡々と口にする。
「いいえ」
だが、アヤメはそれを力強く、毅然と言い切ることで真っ向から否定した。
「カミノは滅んでなんかいませんよ」
「え……?」
「カミノ人としての誇り、その心や言葉が、誰かの中に残り続ける限り……カミノという国が滅ぶなんてことは、絶対にありえませんから」
「――――…………っ」
アトラは言葉を失い、ただ小さく息を呑んだ。
それと同時に、失ったはずの右腕がドクンと熱く疼き、心臓を激しく揺さぶった。
「アトラ様……? どうかしましたか?」
急に黙り込んだアトラの顔を、アヤメが心配そうに覗き込んでくる。
アトラは視線を落とし、それからゆっくりと顔を上げて、微笑んだ。
それは作り物ではなく、計算されたものでもない。
自然と零れ落ちた、初めて見せる本物の笑みだった。
「……いえ。確かに、あなたの言う通りだと思って」
アトラは再び歩き出し、少し照れくさそうに頭を掻く。
「よかったら、カミノ語、お教えしますよ」
「本当ですか! ぜひ、お願いします!」アヤメの表情がぱっと明るくなった。
「僕も習おうかな」
横からロイが便乗してくる。
「お前は自分で勉強しろ」
そこへ、廊下の向こうから一人の男が歩いてきた。
黒髪をだらしなく伸ばした、異様に太った少年だった。病的なまでに肌は白い。
少年はアヤメの姿を捉えた瞬間、「姉さん!」と弾むような声を上げ、その肥大化した不健康な身体をのそのそと揺らしながらも、早足で近づいてくる。
「姉さん! 聞きましたよ!」
「……何をですか、シオン」
アヤメの纏っていた空気が、一瞬で警戒を孕んだ冷たいものへと変わる。
だが、シオンと呼ばれた少年は、そんな姉の拒絶など意に介さずに、無邪気な笑みを浮かべた。
「護衛の男、死んじゃったんだってね!」
「……ステイソンのことですか?」
「そうそう! 確か、そんな名前だったね。まあ、死んだ人間の名前なんてどうでもいいけど」
シオンは他人の死を虫の命ほどにも思っていない口調で、けらけらと笑った。
「でもさ、ちょうど良かったじゃん。あいつ、いつも姉さんをいやらしい目で見てたからさ。当然の報いだよね。天罰だよ、天罰!」
「……そんな事実はありません」
アヤメは歯を食いしばったように言う。
「彼は、私を守るために命を落としたのです。これ以上の侮辱は、たとえ実の弟であっても許しません。今すぐ、その言葉を取り消しなさい」
「あーん。そんな怒らないでよ、姉さん」
シオンは途端に、わざとらしく眉を八の字に下げ、被害者ぶった甘えた声を出す。
「僕、病気なんだよ? 身体が弱いんだ。そんなに怒られたら、ショックでまた体調を崩すかも」
「……貴方の病気は、今は関係ありません」
「ふーん……」
不貞腐れた声とともに、シオンの目つきが、じとりと湿った暗い色を帯びる。
その粘りつく視線が、実の姉を舐め回すように這う。
「そんなこと言うんだ。いいよね、姉さんは健康な身体で産んでもらえたんだから」
「……また、それですか」
「姉さんには、僕の苦労はわからないんだよ。だから、病気は関係ないなんて薄情なことを平気で言えるんだ。……僕はね、こんなに苦しい身体を引きずりながらも、クロム家の次期当主として必死に頑張っているんだよ。もっと優しくしてくれたっていいじゃん! もっと褒めてくれてもいいじゃん!」
シオンは一方的に悲劇の主人公を演じ切ると、甘えるように姉の胸へと飛び込んだ。
「やっぱり姉さんは、やわらかいね」
「……離れなさい」
「えー。わかったよー」
少年は下唇を突き出し、名残惜しそうに姉の胸から離れる。
そして、そこで初めて、アヤメの背後に立っていたアトラとロイに視線を向けた。
「で、こいつらはなに?」
億劫そうに訊ねてくる。
その声音からは、他者への興味など少しも感じられない。
「私の新しい護衛です」
「はあ? こいつらが?」
少年は値踏みするように二人を不躾に見上げ、アトラの前で足を止める。
「もしかして、この薄汚いゴロツキみたいなやつも?」
そう言い放つなり、アトラの足を踏みつける。
背の高さこそ、アトラより頭一つ分以上も低いくせに、体重は倍近くありそうだった。
凶器に近い質量が容赦なくアトラの足を踏みにじる。
「…………」
アトラは声を上げることも、足を引くこともしない。
「シオン!」とアヤメが声を上げた。
「なんだよ、姉さん……また僕を怒るのかい?」
「……もう寝る時間では? 夜更かしは、身体に差し支えますよ」
「うん、そうだね」
シオンは実の姉に甘ったるい無邪気な笑顔を向ける。
そして次の瞬間、一気に冷めた表情になり、アトラに顔を近づけると、耳元で囁いた。
「絶対に姉さんに近づくなよ、ゴミ野郎。その薄汚い手で、少しでも姉さんに触れてみろ。……絶対にぶっ殺すからな。わかったか?」
呪詛のような言葉を吐き落とすと同時に、シオンは踏みつけていた踵に全体重を乗せて、アトラの足の甲をぐりぐりと執拗に踏みつける。
間近から漂う、汗と脂が混ざり合った豚のような体臭。
アトラはその不快な臭気に、一瞬だけ眉をひそめるも、すぐに取り繕って、にこっと目を細め、口角をこれでもかと吊り上げてみせた。
「――はい、かしこまりました。お坊ちゃま」
その答えに一応は満足したのか、シオンはようやくアトラから足を離す。
「おやすみ、姉さん。あいしてるよ」
何事もなかったかのように再び甘ったるい声を出すと、アヤメに近づき、彼女の頬に吸い付くような口づけを落とす。
「じゃあね」と、ねっとりした声を出し、重い足音を響かせながら去って行った。
「……あれが、次期当主のシオン様ですか」不快な足音が廊下の奥へと完全に消え去ってから、ロイがどこか重々しいトーンでぽつりと呟いた。
「随分とシスコンな弟さんなんですね」
アトラが皮肉ると、「……ごめんなさい」とアヤメが恥じ入るように頭を下げた。
「シオンは生まれつき身体が弱いこともあって、昔から周囲には、過保護なほど甘やかされて育ってきたんです。この邸宅の敷地からも、ほとんど出たことがありません。そのせいか……あの子、今年で16歳になるというのに、未だあの調子で……」
「は? ……16?」
嘘だろうという顔でアトラが驚く。
「あれで16なの? 俺と同い年じゃん」
「あらっ。アトラ様って、そんなにお若いんですね」
今度はアヤメが目を丸くし、心底驚いた表情を浮かべた。
「え……。俺、そんなに老けて見えます?」
「い、いえ! 決して、そういう意味では! ……頼りがいがあるから、てっきり私より、年上かと思ったんです」
必死に弁明するアヤメだったが、アトラの顔を見つめながら思わず笑みを零した。
「ふふっ。それなら、私の方がお姉さんなんですね!」
「お望みなら、お姉ちゃんって、呼びましょうか?」
アトラが揶揄うように言うと、「それもいいですね」とアヤメは口元を手で隠しながら笑う。
それまで黙っていたロイが、「アトラ」と真顔で会話に割り込んでくる。
「ちなみに、僕は今年、20歳だ。お兄さんと呼んでくれても構わないよ」
「誰が呼ぶかよ」
アトラは即座に切り捨てる。
アヤメは楽しそうに声を弾ませて笑う。
やがて、「……あ、あの」と少し遠慮がちに声を出し、上目遣いでアトラを見つめた。
「……アトラくんって、呼んでもいいですか?」
「はあ? ……なんで?」
「……なんだか、私より年下だと思ったら、急に可愛く思えてきて。……も、もちろん、嫌ならいいんですけど……」
「嫌って言うか……。もしかして、俺のこと馬鹿にしてます?」
「そ、そんなことはありません! ……やっぱり、だめでしょうか?」
少し不安そうに眉を寄せるお嬢様に見つめられ、アトラはガシガシと頭を掻きむしり、ぷいとバツが悪そうに横を向く。
「……べつにいいけど。勝手に呼んでください」
「やった!」
アヤメはまるで子供のように、無邪気にはしゃいで小さくガッツポーズを作る。
その様子を横目で見ていたロイが、アトラに顔を近づけてくる。
「アトラ。僕は、アトラきゅんって呼んでもいいかい?」
「だめに決まってんだろ。てか、なんでお前は、さっきから張り合ってんだよ」
その後、二人はアヤメに先導され、邸宅内を一通り案内された。
正式な護衛としての勤務、およびこの邸宅への引っ越しは明日からということで、今日のところは一度、街のホテルへと戻ることになった。
豪奢なエントランスホールで、アヤメが二人を送り出す。
「それでは、明日からよろしくお願いしますね」
「はい、お任せください、アヤメ様。誠心誠意お仕えいたします」
ロイが背筋を伸ばし、完璧な格式美に則った所作で、恭しく騎士礼を取る。
「アトラくんも、よろしくお願いしますね」
「ああ、よろしく。ちゃんとお守りしますよ」
アトラが少し気取った言い方をすると、アヤメは柔らかく目を細める。
そして、アヤメは何を思ったのか、トコトコとアトラの方に近づいて、背伸びしながら、黒髪をよしよしと優しく撫でた。
「……なんです、これ?」
アトラはされるがままに撫でられている。
「ふふっ。なんとなくです」
満足そうに手を離すと、アヤメは改めて二人へ向き直る。
にこっと微笑みを浮かべると、スカートの裾を指先で小さく摘み、優雅なカーテシーを披露した。
「それでは、二人ともおやすみなさい」




