第9話 肉球で往復ビンタは癒されてしまいます、旦那様!
「エクレティカ。最近よく来るなあ」
トレミ様が肉塊をフライパンでひらりと返しながら、そう声をかけてくださる。フィルマ様が月の国を出てから、私は喫茶ヘィメンに連日通い詰めていた。
「トレミ様、オムライスをお願いします」
「ハンバーグじゃなくて?」
「……間違えました」
彼の記憶はまだ混濁していないようだ。ふとした拍子に抜け落ちても、すぐに戻ってくる。ノクト様の物忘れの方がよほど激しい。
「逆にノクトが顔見せねえけど……」
「旦那様はお仕事が終わられるまで屋敷に監禁しております」
「怖っ! あいつ、なんかやらかしたのか!?」
「これも愛でございます、トレミ様」
あの方をこの店から遠ざけたくて、午前中の執務量はあえて多めに調整している。屋敷から一歩も出られないように。当日の分は当日中に終わらせたいという几帳面な習性を存分に利用させてもらっていた。
怪しまれないよう、昼からは片時も離れず付き従う。ヘィメンに寄りたいと言われても「出禁でございますから」の一言で屋敷へ連れ帰る徹底ぶりである。
「子猫は元気してる? レティ」
「イーエン家の次期当主になるかもしれません、ヴァン様。それより……またいらしてたんですか?」
「こっちの台詞でしょーよ」
トレミ様の様子を見に店を訪れると、必ずといっていいほどヴァン様と鉢合わせる。
「フィルマがいないことと関係してる?」
「どうでしょう」
本当に勘の鋭いお方だ。この店に通っていらっしゃるのも、トレミ様が彷徨い人だと勘づいておられるからだろうか。
真実は誰にも明かせない。ノクト様にさえも。月送りをしなければならない彷徨い人が目の前にいるというのに、主人に隠し立てをするなど従者失格だとアドリ様に叱られてしまうかもしれない。
それでも、フィルマ様との約束──私は了承した覚えなどないが──を律儀に守っている自分がいた。
「ま、いいけど。浮気はほどほどにな」
頬杖をついてこちらを見つめる視線を振り払い、フォークとナイフを手に取る。運ばれてきたハンバーグへ丁寧に刃を立てると、肉汁が溢れ出した。浮気など馬鹿馬鹿しい。
「レティがずっと信じてきたことが正しいんだから」
言われずとも、信じるものはいつだってノクト様だ。それは死ぬまで変わることなどない。
「ただいま戻りました」
夜空の月が目の眩むほどの輝きを放っている。だが、時刻は間もなく正午を迎えようとしていた。急がなければ、ノクト様が予定の業務を終わらせてしまう。
ノックもせず執務室の扉を開けると、そこには「ルナへのおやつは夕方に一度」というルールをあっさり破っている主人がいた。
「ルナ、聞いてくれよ。俺の従者が酷いんだ」
これは面倒なことになっている。主は私を無視して子猫との会話を続けている。従者の愚痴などこぼさないでいただきたい。
「俺に仕事させるだけさせて、ヘィメンに行ってるらしくてさ」
「なぜそれを」
「ヴァンに自慢された。毎日デートしてるって」
あの御方は本当に余計なことを。頭からキノコでも生えてきそうなほど陰鬱な雰囲気を纏う飼い主に対して、ルナは「そんなことよりもっとおやつをよこせ」とばかりに前足をちょいちょい伸ばしている。
「誤解です。ヘィメンを訪れてはおりますが、そのような不届きなこと誓って一切しておりません」
いくら弁解を並べても、効果はなさそうだった。ノクト様はルナを抱き上げると、柔らかい肉球を私の頬に押し当ててくる。
「俺、頑張ってるのに」
ぷに。
「仕事してるのに」
ぷに。
「ルナの世話してるのに」
ぷに。
薄いピンクの肉球による往復ビンタの仕打ちを受けた──なるほど、天国とはここにあったらしい。
ルナ本人は少々持ち上げられて不満げだったものの、猫用おやつにはあっさり買収されている。美味しかったと口元が物語っていた。
「……レティ?」
なされるがままで反応しない従者を不思議に思ったのか、ノクト様は名前を呼んで近づいてこられる。
「旦那様はどこか遠くに行きたいと思ったことはありませんか」
「遠くって? 果ての国?」
「月の国ではない、どこかです」
トレミ様のために運命に抗ってまで尽くすフィルマ様を、どこかで羨ましいと思ってしまった。イーエン家に仕える身として、あるまじき考えをもってしまった自分が自分でも信じられない。
窓から差し込む月の光に照らされ、ノクト様は思案に暮れている。金色の髪に光が乱反射して今にも消えてしまいそうだった。
残酷なことを聞いているとわかっていながら尋ねずにはいられない。ただ自分が安心したいだけの自己満足な問いを。
「ないって言ったら嘘になるな」
誰よりも弱くて、それでいて誰よりも優しいお方。肩にそっと乗せられた大きな手が、揺らいでいる私にもう一度思い出させてくれた。自分の信じるべきものは、なにか。
「でも俺はやっぱりここが好きだから──どこにも行かないよ」
ヴァン様の言葉の通りだった。私がずっと信じてきた、ノクト様がすべて正しい。この方のために国を捨てて運命に抗うなど、とんでもない。
誰よりも愛しい人が愛した世界で生きていくことこそが愛なのだ。たとえそこに旦那様がいないとしても。
「私も最後まで旦那様のお側におります」




