第10話 旦那様をどうか連れていかないでください
街の中心、巨大な球体の魔導具が静かに鎮座する広場でフィルマ様の帰りを待っていた。今日、彼は月の国に戻ってくる。
記憶を上書きできるという精神干渉の魔導具を求めて旅出ったのだが、折悪く隣国は大規模な魔物の襲撃を受けたため入国が禁じられてしまったのである。
「おかえりなさいませ。この度は災難でしたね」
「残念だけど、こればっかりはしょうがないっス。トレミの様子はどうっスか?」
「お変わりなく過ごされています。記憶の欠落も見られません」
よかった、と心底安堵した笑顔を見ていると罪悪感が募る。ぽつ、と頬に当たる雨粒。この国では雨はめったに降らないので、傘をもたぬ街の人々は濡れないよう建物の中に消えていった。
「うへえ! タイミング悪いっスね。急いでヘィメンに帰りましょ」
フィルマ様は濡れないように外套を頭上で広げた。道中での出来事や出会った人々のこと。トレミ様への土産話を、お隣で次から次へと楽しそうにお話しされるものだから──邪魔をしたくなくて黙って着いて歩く。
「フィルマ様。先にお戻りになってください」
「え? めし、食って行かないんスか?」
このまま坂を下れば喫茶ヘィメンが見えてくる、というところで足を止めた。フィルマ様の外套から抜け出た体は雨にさらされる。
緊張してはいけないと自らを奮い立たせ、深く息を吸った。私はイーエン家の従者として、自分は正しいことをするだけ。
「もうすぐ旦那様がこちらにいらっしゃいます」
握りしめた手のひらが、まだかすかに震えている。だまし討ちのようで申し訳なさが先に立ったが、トレミ様を月へお還しするためには避けて通れない道だ。
真意を計りかねているのか、信じていないのか。フィルマ様が笑顔を崩すことはなかった。
「エクレティカが冗談言うなんて珍しいっスねえ」
彼は待っていた。嘘ですよ、と言葉が続くことを。だが、私は口を固く結んだままなにも返さない。
ノクト様が今度こそトレミ様の月送りに来る。それを察したフィルマ様の目には、ありありと怒りが浮かび上がってきた。
「……なにそれ。裏切ったってことっスか? あんただから話したのに?」
「お約束を受けた覚えはありません」
「オレと同じだって思ってたんだけどな。勘違いだったってことっスね」
つられて感情的になってはいけない。冷静でいなければ。勢いだけで挑めば彼に押し負けてしまう。
「彷徨い人は月に還る。それがあるべき姿です、フィルマ様」
「薄情なやつ! トレミは所詮、あんたにとって他人だもんなあ!」
雨に濡れて、体が底から冷えていく。雨音がいやにうるさい。
「ノクトのことだって、実際あんたはどうでもいいんスよね。だから横でぼーっと立ってるだけなんだ」
「どうでもいいだなんて、そのようなこと思っておりません。あなた様にとってのトレミ様と同じように、私にとって旦那様は大切な」
言い切るより早く、足が宙へと浮き──。
「本当に大切なら、そいつのためになんもしないわけねえだろ!」
フィルマ様に掴み上げられた体は揺れるばかりだった。凄まじい怒声に怯みそうになるのを、奥歯を噛み締めて堪える。
「あのお方は最後まで月の国のために残ることを選ばれた。そのお覚悟を支えるのが私の、使命なんです……っ」
「今度は言い訳に主人を使うんスね、卑怯な女。こんなやつが従者なんてイーエン家の当主も可哀想っス」
フィルマ様は、はんと息を吐き捨てた。息苦しさと分かってもらえない悔しさで薄く涙がにじむ。
可哀想?
どうしてあの方が貶められなければならないのか。そんなこと、あってはならないのに。
「撤回、してください。旦那様へのお言葉だけは」
「しないっスよ。哀れなノクト、自分が大事だって思ってるやつからとっくに諦められてんだからさあ!!」
違う、受け入れたんだ。避けることができない運命に主人も、従者である私も。
──でも、それは諦めとなにが違うというのだろう。
どうしよう、思考がまとまらない。息が徐々に浅くなる。締め上げられているせいもあって、指先が冷たく痺れていく。まともに呼吸することさえ難しくなってきた。
浮いたつま先から、自分の信じているものが崩れ落ちていく。
「わた、私、は」
「レティ。もう大丈夫、ゆっくり息を吐いて」
ふっと胸元の圧迫感が消えたかと思うと、視界が温かな闇に包まれた。よく知った大きな手が、私の目を覆っている。
暗闇の中で響く愛しい声に導かれ、吸うことより吐くことを意識する。自分を支えてくれる手のぬくもりに身を委ねた。次第に呼吸は落ち着きを取り戻していく。
「トレミ。なんでここ……にっ!?」
石畳を蹴る荒々しい足踏みと同時に、ゴッと生々しく鈍い打撃音が耳に届いた。びしゃり、と水たまりに大きなものが倒れ込む音も。
「お前こそなにしてんだ、馬鹿!」
旦那様の手に遮られていて見えないが、おそらくトレミ様がここにいる。フィルマ様が痛みで呻く声などお構いなしで、拳を何度も何度も叩きつけているようだった。
「ノクト、悪いな。少し時間くれるか?」
「……わかった」
肩で息をするほどの苦しさがおさまると、両目を覆っていた手が離れていった。
「図体だけのお子ちゃまが。エクレティカにちゃんと謝れよ?」
「ってえな。トレミが彷徨い人なんかになるから悪いんでしょ!」
明るくなった視界に入ってきたのは、騒がしい見慣れたお二人だった。仲の良い普段通りの掛け合い。今はフィルマ様のお顔が二倍ほど腫れ上がっているけれど。
「まあ? オレは天才だからいいこと思いついたんスよ」
「頭が足りないなりに色々考えてくれたわけだ」
「誰が馬鹿だ! あんたも一緒っスよ!?」
トレミ様は生前そのままだった。話し方も、笑い方も、仕草の一つひとつも。なにも変わっていないはずなのに、彼の心臓だけが止まっている。
「そうだ、俺もやっと思い出したんだ。フィルマ、お前にオムライスとハンバーグの作り方を教えてやりたかったこと」
トレミ様は右手を高く掲げた。これが最後の別れだとは、少しも思わせない笑顔で。
「レシピはカウンターに置いてきた。次に会うときは、俺以上に上手く作れるようになっててくれよ──約束だ」
それが幼なじみの最後の言葉なら、到底果たされないであろう約束でも信じるしかない。フィルマ様はうなだれていた顔を上げ、掲げられた手のひらに向かってご自分の手を振り抜いた。
「じゃあな、フィルマ。同じ月の下でまた会おうぜ!」
パチン、と乾いた高い音が夜を裂く。トレミ様の体は光の粒子となって雨粒と混じり合い、やがて巨大な蝶へと姿を変えた。ノクト様めがけてそれは吸い込まれるようにして飛んでいく。
「ぐっ、う……ごほ、ごほっ!」
激しい咳き込みとともに、旦那様は膝から崩れ落ちた。顔からみるみるうちに血色が失われていく。口元を押さえた指の隙間から、鮮血が撒き散らされていた。
「旦那様っ! 旦那様っ!?」
水も薬も受け付けてくれない。倒れ込もうとするその体をなんとか支える。蝶がその身に溶け込むたびにノクト様は身を悶えさせた。
やめてください、トレミ様。まだ旦那様を連れて行かないで──どうか、どうかお願いですから。
主人の体に無様にすがりつく従者を、フィルマ様はどのような思いで見ておられただろう。あれほど運命を受け入れていると豪語したにも関わらず、ノクト様と離れたくないと願ってしまう浅ましい私を。




