第11話 人たらしと旦那様に拗ねられてしまいました
「レティ。ほら、これ」
トレミ様の月送りから半月。旦那様はようやく倒れる前の体調を取り戻していた。
ルナに朝のご飯をあげていると、ご自身の背丈ほどもある細長い箱を差し出してこられる。大きさに見合うだけのずっしりとした重み。受け取った拍子によろけそうになった。
腕の中でバランスを取っている間も、足元のルナが爪を立てて箱に登ってこないかと気が気でない。
「これは……キャットタワーですか?」
「そう、プレゼント」
キャットタワーだけは買わないとあれほど豪語していらっしゃったのに。いったいどういう風の吹き回しだろう。タイミングもよくわからなかった。
私の誕生日が近いわけでもないし、従者として功績をあげたわけでもない。ただ旦那様はこちらの様子をちらちらと窺って、反応を確かめていた。
「他にほしいものとかあったりする?」
虹色の瞳の奥が案じるように揺れていた。ああ、気遣われている。人の心の機微に誰より敏感な方だから、隠そうとしても誤魔化せなかったようだ。表情にも態度にも決して出していなかったはずなのに。
「いえ。旦那様がお元気であれば、それだけで十分です」
フィルマ様の言葉がまだ胸に燻っていた。考えまいとすればするほど、かえって自分がわからなくなっていく。
本当にほしいものがあったところで多分手に入らない。それを求め続けるのは、あまりに苦しい。
「じゃあちょっと早いけど、街に行こう! 美味しいもの食べたい気分なんだ!」
「はい、旦那様」
いつものようにアドリ様に見送られ、いつもの街へと出る。なにげない会話を交わしながら、いつもと変わらぬ一日をやり過ごすつもりだった。
歩いているとヘィメンの前まで差し掛かると、ノクト様が足を止める。
「そういえば営業再開したらしいな」
確かに閉店の札はかかっていない。あの日以来、店から足が遠のいていたので、休業していたことも知らなかった。
「フィルマがやっと俺の出禁を解除してくれたんだよ。さっそく行ってみないか?」
「私はここでお待ちしております」
フィルマ様との間に何があったのか、旦那様は詳細をご存じない。あえて報告もしていなかった。
「えっ!? ハンバーグ食べないの?」
「いってらっしゃいませ」
「デザートをつけてもいい! 今なら特別にアイスを二個だ!」
「どうぞ、ごゆっくり」
ご褒美をちらつかせて粘られるが、それ以上何も言わせないように深々と頭を下げて拒んだ。
この店の敷居をまたぐ勇気も資格もない。フィルマ様にとって私は裏切り者に他ならないのだから。
「あとで食べたいって言っても、頼まないからな! いいのかっ!?」
それでもなかなかベルは鳴らない。見えずとも、扉の前で待っていらっしゃるのだとわかった。しばらくして、パタンと閉まった音を耳で確認してから顔を上げる。
かつてなら入店とともに、お三方で賑わうヘィメン。その騒がしさの輪の中へ自分も加わっていく。あの日常は戻らないのだ、もう二度と。
『本当に大切なら、そいつのためになんもしないわけねえだろ!』
頭の中でフィルマ様の言葉が何度も反響している。夜でもないのに煌々と輝く月と星が目に痛い。
ノクト様が戻られるまで時間がかかるだろうと、入り口前の階段に腰を下ろして膝に顔をうずめた。
『卑怯な女』
私のしてきたことは正しかったのだろうか。旦那様の望みを受け入れ、最後までお側にいることがすべてを諦めるための言い訳にすぎないのだとしたら──言われた通り、自分はただのずるい女だ。
イーエン家の従者として誇っていただける人間になりたかったのに。今の自分はそこから一番遠い場所にいる。
──カラン。
背中越しに扉が開いた気配がした。予想していたよりも、ずいぶん早いお戻りだ。
「もうよろしいのです、か?」
立ち上がって振り返る。そこにいたのはノクト様ではなかった。
「入らないんスか」
トレミ様のエプロンをつけたフィルマ様が、ドアノブに手をかけて立っていらっしゃった。店の奥からは肉の焼ける匂いが漂ってきて、懐かしい香りが鼻腔をくすぐる。
ノクト様と、フィルマ様と、そして私。トレミ様だけがここにいなくて。その事実に喉が押しつぶされ、お返事できない。
「エクレティカの分も用意してるっス。どうするかは……自分で選んで」
もう一度、閉められたドアの前に私は立った。薄い木の一枚。いつも軽々と開けていたはずのそれが、今日ほど重く感じられたことはない。
浅くなる呼吸。逃げ出したいと弱気になる自分を叱咤して、深く息を吸って整え──自分の意思で扉を押し開けた。ベルが荒々しく揺れる。
「レティ!」
テーブル席でぽつんと座っていたノクト様が、ぱっと顔を上げられた。目の前に置かれたオムライスに一口も手をつけておられない。お待たせしてしまったようだ。
「やっぱりアイス、食べたかったんだろう?」
「はい。旦那様と一緒に……お食事がしたくて」
「しょうがないなあ!」
旦那様はすぐに注文しようと呼び鈴を何度も鳴らす。案の定「ちょっと待つっス!」と怒られてしまった。
しばらくすると、フィルマ様がお作りになったハンバーグが運ばれてくる。トレミ様のものと全く同じ見た目だ。
「さあ、食べよう! レティ!」
スプーンいっぱいに崩したオムライスを口に運んだノクト様は最初の数口こそ勢いよく動いていたものの、次第に咀嚼の動きが鈍くなる。
私もハンバーグを口にすると、二人揃って同じ角度に首をかしげていた。
「おい、味がしないぞ!?」
「見た目は完璧ですが……」
口々に感想を漏らしていると、机の上に水のグラスが置かれた。ダン、と机が割れんばかりの勢いで。
「練・習・中だから! 黙って食えっス」
ノクト様はしょんぼりとしながらもおとなしく匙を動かしている。あれは後でアドリ様に「夕食はオムライスがいい」とねだる顔だ。
塩と胡椒の欲しくなるハンバーグを黙々と平らげていると、フィルマ様がアイスコーヒーを運んできた。いつもの常連サービスだ。そのまま彼はどさっと私の隣へお座りになる。
「この前は乱暴なことしてごめん。でもオレ、あんたのこと許してないっス」
「はい。心得ております」
「けど、エクレティカがオレと同じになった──そのときには」
チン、とグラスの当たる透き通った音がした。
「一緒にアイスコーヒー、飲んでやってもいいっスよ」
「…………はい」
また同じ月の下で愛しい人に再会できることを祈る。彼とそんな時間を過ごす日は、きっとそう遠くない。
「旦那様?」
いただいたアイスコーヒーを飲んでいると、向かいのノクト様がむくれ顔でオムライスを頬張っている。
「元気になったなら別にいいけど……レティの人たらしっ!! ふんっ!」
急に拗ねてしまわれるなんて、困った方。彼のご機嫌を直すだけで一日が終わるであろう、私の日常が戻ってきたのであった。




