第8話 旦那様が引きずられて行きつけの喫茶店から出禁をくらいました
繰り返すようだが、喫茶ヘィメンはノクト様が足繁く通われる店である。とりわけ店員のフィルマ様とは肩を組んで酒を酌み交わすほどの間柄だ。喫茶店になぜ酒があるのかなど考えてはいけない。
その彼が怒号を上げている。栗色の髪が天を衝く勢いだ。明らかに異常事態だった。
「悪いけど、お二人さんは金輪際うちの店に来ないでほしいっス」
「なんで急にそんなこと言うのぉ!?」
残酷な出禁宣告に主人はフィルマ様の足にしがみついて抵抗する。いやいやと首を振る姿は月の国を治める領主にはとても見えない。
しがみついたままずるずると引きずられ、ノクト様は無情にも店外へ放り出される。路上でがっくりと膝をつき、現実を受け止めきれていなかった。
「俺のオアシスが……」
「出直しましょう、旦那様。ご事情がおありなのかもしれません」
彼には先に屋敷へお戻りいただき、私はもう一度ヘィメンへと向かう。扉を開けると、来店を告げるベルが軽やかに鳴った。店の中にいたのは、カウンターでグラスを磨くフィルマ様だけだ。
「エクレティカ……一人っスか?」
フィルマ様は私の背後にじろじろと視線を向けた。出禁を宣言したときも追い出したときも、彼が気にかけていたのはノクト様だけだった。
「はい。お話を伺いたくて」
「ちょうど良かったっス。オレもあんたに話があんだよね」
カウンターの席に案内され、氷をたっぷり入れたアイスコーヒーを出してくれた。お得意様へのサービスだと、ノクト様と馬鹿騒ぎをしていた頃の明るさでフィルマ様は笑う。
先ほどとはまるで別人だった。やはり、我が主人が問題を起こしたに違いない。
「フィルマ様。旦那様が粗相をしてしまったのであれば、改めて謝罪を申し上げたく」
「違う違う! ノクトは悪くないっス」
では、あの怒りようは一体。見当もつかず戸惑う私を置いて、フィルマ様はきょろきょろと店の周りを見渡す。誰もいないことを確かめると、カウンターから身を乗り出してきた。
「あんただから話すんだけどさ。実は……トレミが彷徨い人になっちゃって」
常連であるノクト様と私の注文を取り違えていたこと。あのとき覚えた小さな違和感の正体が腑に落ちた。それでもまだ信じきれない理由がもう一つあったが。
「つい最近までお元気だったように記憶しておりますが」
「病気、隠してたみたいで」
いつものようにお二人で開店の準備をしていたとき、喫茶ヘィメンの店主は倒れた。声をかけ続け、しばらくすると起き上がったのはいつも通りのトレミ様。だが、その心音はすでに途絶えていたという。
「だから、ノクトが店に来ててびっくりしちゃったんス。ごめんな、キツいこと言って」
月送りに来たのだと思われたのだろう。実際は、いつも通り拗ねて訪れただけだったわけだけれど。
突然の別れ。しかも二度目など簡単に受け入れられまい。ただ、私にこの話をしたということはフィルマ様の中で受け入れる決意ができたということ。
「いえ。では、旦那様をお呼びして月送りを」
「しない」
──ではなかった。
「そのまま放っておけばトレミ様がどうなってしまわれるか。ご存知ないはずはありませんよね」
「わかってる! でもオレ、思いついたんスよ。彷徨い人になっても、ずーっといられる方法」
くだらない、という言葉が喉元まで出かかった。そんな方法があるのなら、とっくの昔に誰かが試している。先人たちを侮ってはいけない。
それでも、彼は自信ありげにアイスコーヒーの入ったグラスを爪で軽く叩いた。
「氷が溶けてもそれはアイスコーヒーだろ? 薄くなったらドリップを継ぎ足してやればいいんスよ」
おそらく比喩の意味するところはアイスコーヒーが彷徨い人で、ドリップが記憶ということだろう。だが、周囲の人間がどれほど思い出させたところで、彷徨い人の記憶は少しずつ失われていく。
それはこの国に生きる者なら誰もが知っていることだ。
「隣国の闇市に、記憶を上書きできる魔導具があるらしくてさ。それさえあれば魔物化しないと思うんスよね」
不覚にもそんな魔導具が本当にあるのなら、実現しないとも限らないと思ってしまった。しかし、そんなあるかないかもわからないものに賭けるのは無謀だ。あまりにも。
「だから、頼む! その間、トレミをノクトに会わせないようにしてくれないっスか?」
「……もし間に合わなかったら、どうなさるのですか?」
「そのときは夜の国から離れた──どこか遠くに行くっス、二人で」
無謀だとわかっていながら、彼の願いそのものを否定することはできなかった。もしものことを聞いて自分はどうしたかったというのか。
「ノクトにもあんたにも迷惑かけない。オレも多分、彷徨い人になるだろうし」
誰に笑われても、フィルマ様はトレミ様と少しでも長く共にいられる可能性に賭けるつもりなのだろう。たとえ失敗に終わっても、幼い頃から一緒にいた人間として最後まで隣にいる覚悟でおられるのだ。
返事を口にする前に、カランとドアのベルが鳴った。
「いらっしゃい! じゃあ、エクレティカ──約束っスよ!」
そう言い残して、フィルマ様はカウンターの奥へと姿を消していった。
「……なになに? お二人さん、怪しいこと企んでる?」
「揶揄わないでくださいませ。失礼いたします」
新しく来た客はヴァン様だった。また見回りを口実に抜け出しているのだろう。そろそろ自警団に報告するべきかもしれない。彼が席に着くのを確認してから私は立ち上がり、店を後にした。
亡くなってしまえば終わり──それが命の道理であるはずだ。彷徨い人として留まって、悠久のときを過ごすなんて馬鹿げている。誰にでも平等に訪れる別れは受け入れなければいけない。
『オレ、思いついたんスよ』
それなのに、抑えられない自分の感情に戸惑いを隠せない。私はどうしてこんなにもフィルマ様の諦めの悪さを羨ましく思っているのだろう。




