第7話 旦那様の理想の女性がどう見ても私なんですが
子猫のルナが来てからというもの、この屋敷は少しばかり賑やかになった。執務室の扉越しに「だあっ」とか「やめてくれえ」といった情けない声が漏れてくる。朝の書類仕事に追われるノクト様だ。私は気にすることなく、用意した飲み物を手に室内へと足を踏み入れた。
「旦那様、コーヒーをお持ちいたしました」
案の定、中には子猫の妨害にあってへにょへにょになった主人の姿が。彼がサインをしようとするたび、ルナは目にも留まらぬ速さで羽ペンに飛びかかる。
ノクト様が買い与えたおもちゃにはさして興味を示さない日も多いというのに、このときばかりは興奮で彼の手をがじがじと甘噛みしていた。
「ルナぁ、俺は遊んでるんじゃないんだってぇ」
このままでは熱いコーヒーまで巻き添えになりかねない。ルナに落とされたであろう紙を拾い集め、カップをデスクの安全な位置へ避難させる。愛猫を膝に抱き上げ、狭い額を指先で軽く撫でてやると、満足そうに喉を鳴らしはじめた。
「この暴君が。キャットタワー買ってやろうと思ってたけど、やめだ、やめ!」
「是非そうしてください。買いすぎですから」
ノクト様は仕事がお好きではないものの、嫌なことを溜め込まない性分でいらっしゃる。私がルナの相手をしている間、彼は懸命に今日の分を片付けようとしていた。
合間には、ご本人がブラックだと思い込んでいる一杯を口にしながら。主は「コーヒーは絶対ブラック!」と意地を張るのだが、苦さを堪えるたび手が止まってしまう。だから、私はこっそり砂糖とミルクを混ぜているのだ。
「旦那様」
ノクト様の手が止まったところで声をかけた。ちょうど時計の針も休憩の時間を指し示している。
「今まで申し訳ございませんでした」
「お、俺なんかしたっけ?」
まるで心当たりのない様子のノクト様は、たちまち不安げな顔になり、自分が何をしたかを思い出そうとしていた。この方は誰かを疑うよりも先に、まず自分を疑う人なのだ。
「押し付けがましい幻で嫌な思いをさせてしまいました」
「ああ。なんだ、それ? いいよ気にしないで」
「ですので、手を握っていただけますか?」
「…………なんでぇ!?」
これまでの失敗は、我が主人のお好みの女性像を勝手に思い描いていたせいだ。ならば、まずはご本人に直接尋ねるのが筋というもの。
「旦那様のイメージと魔力を同調させ、深層心理に潜む理想の女性を形作るのです」
手を握れと告げたところで、主はまごまごするだけだ。そう踏んだ私は強引に彼の両手を掴むと、「ぎにゃっ」と声にならない悲鳴が上がった。従者相手だというのにこれほど顔を赤らめていては、運命のお相手との先が思いやられる。いい加減、慣れていただかねば。
「リラックスして。頭から足の先まで、詳らかに想像してください」
「う、うん」
自らの魔力をノクト様へと流し込む。二人を包み込むように、部屋が白い霧で満たされていく。怯えたルナはソファの下へ逃げ込んでいた。やがて霧の中から、一人の女性の姿が浮かび上がる。
「この方が旦那様の運命のお相手です」
濃い群青色の、腰まで届く長い髪がふわりと揺れた。アクアマリンを思わせる透明な青の瞳は据わり、唇はきつく引き結ばれている。背丈は自分とよく似ており、身に纏う衣装さえ──私とまったく同じ従者の服だった。
「……いい加減になさいませ。私ではありませんか」
「うぅ、だってぇ」
「いくら照れくさいからといって、これでは職務がこなせません」
隣で肩を落としているノクト様にあえて厳しい物言いをした。優しくしたところで、月の呪いは待ってはくれないのだから。彼は運命の相手と結ばれ──子どもを残し、私を置いて、いなくなってしまう。
「あと二年しか、ないのですよ」
「わかってるってば、そんなことおお! レティの鈍感っ!」
すっかり拗ねてしまわれたノクト様は屋敷を飛び出していった。行き先はいつも決まっているので心配する必要はない。
ただ、追いかけなければそれはそれで厄介なことになるのも分かっていた。拗ねると長引くお方なのだ。幻影の自分も呆れて肩をすくめている。出発の前にルナへ挨拶をしておこう。
「いってきますね」
彼女はいってらっしゃいの代わりに、にゃあ、と一声鳴いてくれた。
街の賑やかな一角にある喫茶店、ヘィメン。これまた輪をかけて騒がしいオーナーと店員の二人で営むその店はイーエン家にいる人間の行きつけだった。嫌なことがあったときや拗ねたとき、彼はいつもここでオムライスを頼むのである。
「いらっしゃい! エクレティカ、いつものでいいか?」
「はい、トレミ様」
そして迎えに来た私がハンバーグを注文するのも、いつものお決まりだ。自分の好みも、正直なところノクト様とさほど変わらない。
オーナーのトレミ様が作る料理は絶品で、かつて宮廷の料理人だったのではないかと疑ってしまうほどだ。
「旦那様、帰りますよ」
「やなこった!」
まだ機嫌は直っていないらしい。ご自身で運命の伴侶を探してこいと命じたはずなのに、いざ見つけようとするとこの通り。本当に気難しいお方である。もう慣れたが。
やれやれと冷水を口にしていると、私の前にオムライスが、ノクト様の前にはハンバーグが置かれた。
「おいっ! オムライスは俺のだろ!」
悪い悪い、とトレミ様が二つの皿を入れ替える。取り違えなど誰にでもあることだが、一口食べたハンバーグの味もいつもと違う。
「トレミ様、味付けを変えられましたか?」
「いんや? いつも通りだけど」
少しの違和感を覚えつつ食べ進めていると、買い出しから戻ってきたらしい店員のフィルマ様が姿を見せた。そして開口一番──。
「出て行け!」
彼は大声で私たちを怒鳴りつけたのである。




