第44話 私が準備したのは旦那様へのサプライズだけではありません
ルナが鳴いている。どんどん遠くに離れていく。追いかけなくてはいけないのに、目を開けられない。重い。体になにかがのしかかっている。必死に瞼を持ち上げると、眉間に銃口が向けられていた。
「おはよ、レティ。起きたばっかで悪いんだけどエテルナはどこだ?」
ヴァン様は魔導中の引き金に手をかけながら笑っている。引き攣った口元が必死さを物語っていた。
「一緒にいたはずなんですが……」
魔力となったエテルナ様は私の中にいるはずだった。意識を失う前までは確かにその存在を感じていたのに、いまは片鱗さえ掴み取れない。
彼女の魂がいなくなってしまったことにヴァン様も気づいたのか、大きくため息をついて地面に座り込んでしまわれた。
「マジかよ、信じらんねぇ」
私たちがいるのは幻灯機の内部。それなのに、あたりには見覚えのある景色が広がっている。月の国の街外れにある公園──自警団の仕事をサボって、ヴァン様が猫たちと戯れている場所だった。
テルブルア家の記憶を受け継いだいまならわかる。この方がなぜいつもここにおられたのか。
「ずっと待っていらっしゃったんですね」
幻灯機へと向かうエテルナ様は書き置きを残していた。そこにあった「猫と仲良くなれたら迎えにきてあげるね」という彼女の言葉をヴァン様はひたむきに信じた。
「動物は苦手なんだ。なに考えてんのかよくわかんねぇし、くしゃみ止まんねぇし。でもあいつは飼いたがってたから」
猫じゃらしを片手に、鼻のむず痒さと戦いながら仲良くなろうと奮闘しておられたのだ。エテルナ様と再会し、二人で愛猫を囲むことを夢見て。
「……だからといって、月の呪いで多くのご当主たちを犠牲にしてきたのは許されないことです」
ぐったりと俯いていたヴァン様は、疲れ切った目だけをこちらに向けると小さく舌打ちをした。
「やっぱ、わかんねぇか。エテルナと同じことした、お前なんかに」
そうして再び顔を伏せてしまう。五百年の絶望に私は寄り添えない。ルナ、はやく戻ってきてくれないと。仕掛け人がいなければサプライズがはじめらない。
「よかったですね、ヴァン様。夢が叶って」
いつかノクト様に言っておられた言葉を一語一句違わずに復唱する。すると、一つに束ねた彼の髪が、突然ぴょこぴょこと動きだした。どこからともなく現れた猫が、「構ってくれ」と前足で軽く触れているのだ。
顔を上げたヴァン様の瞳には光が差していた。薄緑の目を潤ませて、子猫を優しく抱き上げる。ようやく愛しい人の迎えがきた男は、ただただ穏やかな笑顔を浮かべていた。
「あぁ……エテルナ、遅ぇよ……待ちくたびれた」
そして力なく倒れ込んでいく。にゃあ、と一声、返事が聞こえたかと思うと、ヴァン様のお姿はそこになかった。私の前にいるのは二匹の猫だけ。靴下柄の黒猫と薄緑の瞳をした灰色の猫は公園の奥へと歩いていく。向かう先で集まっているたくさんの猫たちは、きっと代々犠牲になってきたイーエンの魂。
はじめは気まずそうにしていた灰猫だったが、黒猫に導かれ輪の中に溶け込んでいった。やがて二匹は寄り添って眠る。お互いの体を満月のように丸めて。
おやすみなさい、エテルナ様。おやすみなさい、ヴァン様。どうか、お二人の見る夢が幸せなものでありますように。
♢♢♢
残された私はあてどなく彷徨い続けた。鏡合わせになっている月の国はとても静かだ。人の気配はなく、ひらひらと蝶がいたるところに飛んでいる。心地のいい街の喧騒が聞こえてくることはない。
これからは幸せだった記憶だけを頼りに生きていくのだ。幻の月の国で、たった一人で。足が疲れたわけでもないのに、もう歩くことができなくてその場にへたり込んでしまう。
フィルマ様の味のしないハンバーグが食べたい。ペルシスタ様とアドリ様にありったけの感謝を伝えたい。旦那様に、名前を呼んで抱きしめてもらいたい。途方もない孤独に、固めたはずの決意がガラガラと崩れていく。
「寂しい、寂しいよぉっ……!」
一人は、嫌だ。顔を覆っていた手にざらりとした感触が走る。私の手を何度も舐めてきたのは、毛並みの整った白い猫だった。
「にゃーん」
「あなたも一人なんですか?」
物悲しげに垂れている目がノクト様のものとそっくりで、どうしても一緒にいてほしかった私は──力強く抱き抱えてしまった。そんなことをすれば、逃げてしまうかもしれないのに。
「私と一緒ですね……」
だが、猫は逃げない。喉を鳴らして全身を預けてくる。ふわふわの毛とあたたかな体温が救いのように感じられた。旦那様によく似た猫を無心で撫でていると、澄んだドアベルの音が周囲に響き渡った。
「エクレティカ! そんなしょぼくれた顔してどうしたんだ?」
ハンバーグとオムライスの香り。アイスコーヒーをいただきながら、喫茶へィメンでいつも聞いていたお声。ノクト様とフィルマ様、それから──。
「トレミ様……なぜ、ここに」
「俺の店の前だからな」
そう言われて、いま自分のいる場所が喫茶へィメンの通りであることに気づいた。月送りをされたはずのトレミ様がいる。偽者かと疑ったが、白い歯を見せて笑うお顔は生きておられたころとなんら変わりない。
「ちょっと散歩にでも行くか?」
白猫もトレミ様も自分が都合よく作ってしまった幻覚なのかもしれない。それでもよかった。寂しくなければ、なんだって。




