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第43話 さよなら、私の愛しい旦那様!

「レティ、なにをしたんだ……?」

「月の呪いを幻にしたのです」


 旦那様の体から蝶の形をした痣が跡形もなく消えていた。小さな手鏡を覗きこみ、指先で右頬を何度も触れておられる。長きにわたり自身を蝕んできた月の呪いから解放されたとは、まだ信じられないご様子だった。

 代々テルブルア家の人間に受け継がれてきた記憶をノクト様にもお伝えしなければならない。月の呪いはたった一人の男の手によって生み出されたものだということを。


「昔、彷徨い人は記憶を取り戻すと夜空に浮かぶ月へ還っていました」


 月の国がまだその名で呼ばれていなかったころ。人々は彷徨い人に苦しめられていた。彼らが記憶を取り戻すのは奇跡に近く、月へ還る者よりも魔物と成り果てる人間の方が圧倒的に多かったのだ。

 それを食い止めるために生み出された装置こそが幻灯機(ファンタスマゴリオ)だった。莫大な魔力を強制的に吸い上げ、魔物化を未然に防ぐ。その仕組みは月送りと名付けられた。


「魔石を加工する技術すら確立されていない時代、この国を救う魔導具を作った男の名前は──ヴァン。ヴァン・イーエン様」


 ずっとノクト様に似ていると感じていた。顔立ちも、纏う雰囲気も、そして手先の器用さまでも。生き別れの兄弟かと疑うほどに。それもそのはず、二人は同じイーエンの血を分けた者同士なのだから。


「ヴァンが、イーエン家の人間?」

「旦那様のご先祖様になります。彼は彷徨い人なのです」

「あり得ない……そんなの、とっくに魔物になってるはずだ」


 おそらく五百年ほど彷徨っておられる。魔物に身を落とすことなく、はっきりとした記憶を持ち続けたまま。その理由が月の呪いの根源だ。


「月送りには魔力の吸収材となる人柱が必要でした。それに選ばれてしまったのはエテルナ・テルブルア様……ヴァン様の奥様だったのです」


 犠牲を伴わずに月送りができる方法を、ヴァン様が模索しておられる最中の出来事だった。優秀な息子に高位の貴族女性と結婚してほしかったご尊父は、エテルナ様を人柱に選んだのだ。

 夢にも思わなかっただろう。ご自身の手で生み出した魔導具で、愛する奥様とお腹にいた我が子が犠牲になるなど。


「絶望に打ちのめされた男は幻灯機を密かに改造しました。そうして生まれたのが、月の呪いなのです」


 人柱となるのは必ずイーエン家の血を引く者。エテルナ様が亡くなったご年齢と同じ年になったとき、魔力を吸収し尽くした体を幻灯機に捧げさせる。すべてはご自身の存在を膨大な魔力で永らえさせるために。


 それが、月の呪いの真実。


「私の魔法で月送りの仕組みを幻にしたから呪いが解けたのです」

「やるじゃん、レティ〜」


 ぱちぱちと乾いた拍手が聞こえてくる。称賛などするつもりもない、気の抜けた音だった。

 ペルシスタ様に人払いをお願いしていたのだから、この広場には誰もいないはず。それなのに、まるで初めからそこにいたかのように現れた。こんな芸当、彷徨い人でなければできない。


「この魔導具は破壊されたら周囲の魔力で自動修復するんだ。壊すんじゃなくて書き換えるって発想は悪くない……発動者の魔力量が少なすぎるってところに目を瞑ればな」


 コンコン、と魔導具の金具部分を軽く叩かれた。金具に刻まれていたお名前はご丁寧に削り取られている。

 私に仕組みを丸ごと書き換えられたというのに、ヴァン様の口角は上がったまま崩れない。そこには隠す気もない侮蔑があった。


「もって半日だ。二十三年分の呪いが一気に襲ってくるぜ、お前の愛しい旦那様にさ」


 大口を開け、腹を抱えながらなんとも下品な笑い声を上げる。くすんだ緑の瞳は倒錯した愉悦でどろりと濁っていた。自分と同じ絶望で苦しむ人間が増える様を楽しんでおられる。


「私が無策で挑んでいるとお思いですか」

「ああー、なるほど。ノクトの身代わりになるってわけ」

「いいえ。お暇を頂戴するだけです」


 覚悟はとうに決めていた。私は立ち上がり、幻灯機のもとへ一人歩みを進める。待ち構えるヴァン様は至極つまらなそうに肩をすくめられた。本来であればイーエン家以外の人間があの魔石に身を捧げることはできない。しかし、幻でその仕組みを書き換えたいまなら魔導具の一部になることができる。

 魔力に満ちた幻灯機の中でなら魔法を発動させ続けられるだろう。いつまでもつのかは正直わからない。それでも、旦那様が生きておられる間くらいならなんとかなるはずだ。


「身代わり……?」


 棒立ちになっていたノクト様だけが状況を飲み込めずにいらっしゃった。だが、ヴァン様の言葉で、ご自分の従者がなにをするつもりなのかを理解してしまった。


「レティ! いい、そんなことしなくていい!」


 私を追いかけるために走り出そうとするノクト様。彼を後ろから押さえつける人影が現れる。


「──っ、アドリ!? 離せっ!」

「旦那様! 見届けてやってくださいませ。わたくしの娘が……選んだ道を!」


 アドリ様だった。声が震えておられた。愚かな娘の我儘に最後まで付き合わせてしまった。全力で抵抗する主人を止められるのは、イーエン家の家令であるこの方をおいて他にいない。

 全身全霊で身を捩り、拘束する腕から踠いていたノクト様だったが、やがてぱたりとおとなしくなった。


「わかった、いいよ。レティはせっかちなんだから。ちょっと早いけど、一緒に行こうか。だから俺のところに来て……?」


 ずるい人。目を潤ませて首を傾げれば、お願いを聞いてもらえると思っている。本当に子猫みたいだ。私は笑みを浮かべたまま、首を左右に振った。


「嫌だ。嫌だ、嫌だ、嫌だぁーーっ!!」


 天を突くほどの慟哭が広場に響き渡った。


「やっぱり外になんか出すんじゃなかった! ずっと二人であの部屋にいればよかった……信じたのにっ、信じたのにぃっ、ああっ!!」


 首を掻きむしりながら、狂ったように叫んでおられる。爪の先からは血が滲んでいた。動きを封じる首輪を外したこと、もう私がご自分の手元から離れることはないと信じたことを後悔しておられるのだ。

 魔力を爆発させ、アドリ様を弾き飛ばした旦那様が再びこちらへと向かってくる。


「ノクト、見苦しいわ」


 うねりを上げて地中から生えた木の枝がノクト様の動きを止めた。ペルシスタ様の魔法だ。彼女のお顔は扇ですっかり隠れてしまって、その表情を窺うことはできない。

 アドリ様を通じて、私の計画はすでにお伝えしてあった。何度も止められたけれど、「後悔をしたくないのです」とかつて交わした約束を口にすれば、最後には受け入れてくださった。

 魔法によって絡め取られた旦那様は、ただ泣くことしかできなかった。木の枝にたくさんの涙の痕ができていく。


「痛くても耐えた、辛くても我慢した、どこにも逃げられなくても受け入れた! 俺にだって一つくらいご褒美があったっていいじゃないかぁ……!」


 耐えなくていい。我慢しなくても、受け入れなくてもいい。ノクト様はもう、終わりなど見なくていいのだ。十年前、飢えと寒さの中で終わるはずだった私に未来という光を見せてくださった。イーエン家の従者になってから、ずっとずっと幸せだった。いまこそご恩を返すときだ。


「お別れか。寂しくなるな、レティ」

「ヴァン様もご一緒ですよ。あなた様は私を追いかけずにいられないはずですから」


 半笑いだったお顔に困惑の色がじわりと滲みはじめた。ヴァン様であれば見逃すはずがない。私の内に宿る大切な方の魂の気配を。

 魔石がほのかに光を帯びはじめ、もう時間だと告げる。覚悟を決めたはずの手がガタガタと震えた。最後まで格好がつかない。未練がましくノクト様のお姿を、お声を記憶に刻みつけたくて、私はつい「旦那様」と呼んでしまった。


「宝物みたいな思い出をたくさん作ったら──どうか、それをお土産にして会いに来てくださいませ」


 きっとノクト様は素敵な花嫁様を見つけて、共に人生を歩んでいかれるのだ。それでも、最後の最後には私を選んで月の世界まで会いに来てほしい。だって──。


「私は……寂しんぼですから」


 幻灯機から影すら残さないほどの強い光が放たれる。「レティ!」と、愛しい人が自分の名前を呼ぶ声が聞こえた。






 ああ、さよなら──私の愛しい旦那様!

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