第4話 旦那様の愛読書を暗記して完全再現してみました
扉を三回、等間隔に叩く。名乗るまでもない。「ん〜」という気の抜けた返事を聞いて、私は執務室へと足を踏み入れた。
ノクト様が書類の山とにらめっこするのにも飽きがくる頃合い。無論、その瞬間を狙ったのである。
「旦那様、お仕事中失礼いたします。先日のリベンジをさせていただきたく」
前回は不評に終わった。それゆえ今回は、旦那様の好みについて念入りに下調べを重ねてきた。今度こそ我が主人を心ゆくまで満足させてみせる。
「……いいけどぉ。どうせ前みたいな感じでしょ?」
「ご安心を、きっとご満足いただけます」
目を閉じて、魔力とイメージを重ね合わせて幻影を綿密に編み上げていく。白い靄の中からゆっくりと浮かび上がる女性の姿に、主人は驚きを隠しきれない様子だった。
「ペルシスタ嬢!?」
かつてノクト様の婚約者であったペルシスタ・ツィトルス様。とある事情から彼が一方的に婚約を破棄されたお相手である。
「こ、こんな破廉恥な格好! 彼女に失礼だぞ、レティ!」
幻の元婚約者様は豊かな胸元を大胆に強調したドレスをまとっておいでだ。刺激が強すぎただろうか。
しかし、顔を両手で覆い隠しながらも、指の隙間からスリットに覗く彼女の太腿をしっかりと盗み見ておられる。まったく正直なお方だ。
「失礼もなにも、こちら旦那様のお好みを再現したものですのに」
「そんなわけ」
「あります。こちらを熟読いたしましたから」
ベルトポーチから一冊の本を取り出し、ノクト様に掲げて見せた。表紙を目にした彼は口元をひくひくと引きつらせ、みるみる顔も青白くなっていく。
「うわーっ! まさっ、おまっ、これ、よんっ!?」
まさかお前、これを読んだのか。そう言いたいのだろう。主人の目を盗んで書店に立ち寄るくらい、造作もないことだ。
悲鳴を上げながら本をひったくられる。新刊を含めた全三巻──『蔑まれたいご主人様は甘美な囁きを求める』を読破した私からしてみれば、今さら取り上げられたところで痛くも痒くもない。
「そちら全て暗記しております。では、お楽しみくださいませ」
命令とはいえ、あまりに官能的な筆致の小説を頭に叩き込むのは骨が折れる作業だった。しかし、今こそ想像力を存分に振るうとき。
ペルシスタ様が主をじりじりと追い詰めていく。後ずさった彼が尻もちをつくと、幻はすかさず組み敷いて顎をくいと持ち上げた。
「やだーーっ!!」
彼が幼子みたいに喚くと、幻影はまたも霧散させられてしまった。さすがにこれには堪忍袋の緒が切れる。
私は並の魔法師より発動に大きな労力を要するのに、あれもやだこれもやだと駄々をこねるとは——そもそも誰の命令でこんな茶番を演じていると思っているのか。
「旦那様」
倒れ込んだままのノクト様の上に、消え去った幻の代わりとして自分が馬乗りになる。ばちん、と両手で頬を挟み込み、顔を動かせぬよう固定した。こうでもしなければ目をすぐに逸らそうとなさるからだ。
「わがままばかりおっしゃらないでくださいまし」
「ひゃい……」
ノクト様は顔を真っ赤に染めて息を荒らげている。私は視線を逃さないために間近まで顔を寄せ、じっと睨みを利かせた。
ぎゅっと目を瞑った彼の耳元で囁く。閉じてはいけません、と。すると薄く涙を滲ませながら、抵抗することなく目を開いた。
「も、もう許してくれ。俺が悪かった、レティ」
「お気に召さないのでしたら、ご自分の口で希望をおっしゃってくださいませんか」
「それはっ」
私の手の中でぷるぷると震え、口籠もる旦那様。その答えをしばらく待っていると、部屋の扉が控えめに叩かれた。
扉にはすでに小さな隙間ができており、そこから一本の猫じゃらしがひょいと飛び出ている。
「邪魔してごめんなんだけど……仕事、頼んでいい?」
どうやらヴァン様が屋敷にいらしていたらしい。主人へのご依頼とあっては仕方がない。私は渋々ノクト様の上から離れる。彼は仰向けのまま、消え入りそうな声で「勘弁して」と呟いていた。
「これはまた男の夢と浪漫が詰まってんな」
客人をもてなすための紅茶を支度する私の傍らで、ヴァン様はノクト様の愛読書に目をやる。
緩く束ねられた髪。全体は灰に沈み、ほのかな金を帯びた毛先を指先でくるくると弄びながら、心底退屈そうな顔で流し読んでいた。
「旦那様と共通点の多い主人公でしたので、自己投影されていらっしゃるのかと」
「それ以上はやめてやれよ……」
ヴァン様の薄い緑の瞳には、我が主への哀れみと同情が浮かんでいる。ただ、客観的な事実を述べただけなのに。
「ところでヴァン様。お仕事とは?」
彷徨い人絡みだろうか。ヴァン様は妙な勘がおありだ。生者との判別は本来至難の業だが、自警団として日々多くの人と接しているぶん、その僅かな違和感を見逃さない目が養われているのかもしれない。
「実はレティにお願いしたいことがあってさ」
「レティは俺の従者だぞ。勝手なことさせるな」
「だからお前がいるときにお願いしにきたでしょーよ」
一連のやり取りを聞いて、力なく床に伏していたノクト様がむくりと身を起こされた。いつもお世話になっているヴァン様からの依頼だ、断るわけ理由もないだろう。
「私でお力になれることでしたら」
その一言に、ヴァン様とノクト様は見事なまでに対照的な表情を浮かべられた。そして、私の鼻先にちょんと猫じゃらしが触れる。
「猫を探してほしいんだ」




