第3話 彷徨い人になれない従者は最後まで旦那様のお側にいます
「今日こそはいけると思ったんだけどな」
私たち二人が公園に足を踏み入れた途端、縄張りとしていた野良猫たちは一斉に逃げていった。ヴァン様は鼻をずるずるとすすりながら、右手で猫じゃらしをゆらゆらと揺らしている。
「猫アレルギーは根性でどうにかなるものではございませんよ」
「レティにキスしてもらえば治るんじゃねぇかなあ?」
私の肩を抱き寄せて彼が顔を近づけてくる。ときめくどころか、心は少しも動かない。いつもの軽口だからだ。ヴァン様は相手が女性であれば誰にでも甘い言葉を吐く方なのである。もっとも、アレルギー症状による真っ赤に腫れた目のせいで色気もへったくれもないのだが。
「ヴァン! 俺の従者を口説くために呼んだわけじゃないよな!?」
ノクト様が目ではなく顔を真っ赤にして、ヴァン様の手から私を引き剥がす。お二人とも、私のことを物か何かだと思っているのだろうか。
「器の小せぇ領主はだせぇぞ。お前に頼みたいのは、こいつだよ」
遊具の陰からは小さい女の子が、おずおずと姿を現した。
「お子様がいらしたのですね、ヴァン様」
「迷子だ、迷子。俺じゃ、親のところまで送り届けてやれそうになくてな」
彼のお子様ではないと承知の上での、先ほどのささやかな仕返しである。ヴァン様は自警団に所属しておられる。おそらく見回りの最中に、迷子になっていたこの少女を保護したのだろう。
長い前髪の隙間から怯えた瞳がこちらを覗いていた。ヴァン様が少女を親の元へ送り届けられないということ──それはこの子が、すでに亡くなっていることを意味していた。
「ママぁ……一人にしないで……」
親の姿がどこにも見当たらず、不安でたまらないのだろう。この国の土壌には濃密な魔力が満ちており、それゆえ凄まじい魔力量を持つ人間がしばしば生まれる。
だが、その強大な魔力は恩恵だけをもたらすのではない。命を落としてもなお、その魔力が肉体を動かし続けてしまう現象を引き起こすのだ。記憶も肉体もそのままに、生きている人間と何ら変わらぬ姿でこの世に留まり続けるため、見分けることは非常に難しい。きっと、この子も。
「彷徨い人、なんですね」
「そゆこと。放っといて魔物になっちまったら可哀想だろ?」
彷徨い人になったからといって永遠に生き続けられるわけではない。長い年月は少しずつ記憶を奪い去る。人間としての記憶をすべて失ったとき、内に秘めた莫大な魔力がその人を魔物へと変えてしまうのだ。
「麗しのレディ、どうか泣かないでくれ」
ノクト様は少女の前に跪くと、手のひらの上に魔法で一輪の花を生み出した。キザな台詞とともに。
「きれいなお花!」
「今日の出会いを祝して、君にこの花を贈ろうじゃないか!」
自然体の少し格好つかないノクト様でも十分に魅力的だ。それなのに、彼は女性──赤ん坊であろうとお年寄であろうと──を前にすると、緊張のあまりつい尊大かつ芝居がかった振る舞いに出てしまうのである。
「レディのママは、どんな人だったんだい」
「えっとね、あたしのママは……ママ……?」
少女の記憶はもう朧げになりはじめていた。魔物は必ず、生きている月の国の人間を襲う。自分が何者であったのかも分からなくなった悲しみを紛らわすために。
そして、その悲劇を止められるのはただ一人。イーエン家に生まれたノクト様だけなのだ。
「きっとレディのことが、大・大・だぁ〜い好きだったんだろうね!」
我が主は少女を勢いよく抱き上げ、大きな口で笑いかける。その言葉に少女は愛しい母のことを思い出したのだろう。笑みを綻ばせてノクト様に抱きつくと、その体は柔らかな光に包まれていった。
「さあ、レディ。ママを待たせてはいけない! 俺が連れて行ってあげよう」
やがて光の粒は数匹もの蝶となり、ノクト様の周囲を舞う。そして吸い込まれるようにその体へ消えていった。彷徨い人は月へと還る。そう、この方の元へと。
「ママ!」
ノクト様の中で少女は母と再会できたのだろう。喜びの声がどこからか聞こえてくるようだった。
名も知らぬ少女が羨ましい。ノクト様の中で穏やかな眠りを得られるのなら、どれほど幸せだろうか。
けれど同時に、魔力がなくてよかったと思う自分もいた。魔力を持たない私は絶対に彷徨い人にはならない。誰より大切な方を傷つけずに済むのだから。
「二人で逃げりゃいーんじゃね?」
ノクト様の月送りを粛々と見守っていた私に、ヴァン様がいかにも名案だと提案してくる。逃げる──どこへ?
「呪いは月の国特有のものなんだし、ワンチャン助かるんじゃねぇの?」
月の呪いによって二十五歳で命を落とすのは彷徨い人という存在があるからだ。彷徨い人とは魔力の塊。それを絶えず体内に取り込み続ければ、肉体が耐えきれるはずもない。それこそが月の呪いの正体である。
「旦那様は、そのようなことをお望みになりません」
月の呪いを恐れて彷徨い人をその身に取り込まなければ、この国は民を襲う魔物で溢れ返ってしまう。投げ出したくなってしまう宿命から、ノクト様は逃げないという道を選ばれたのだ。
「私は、最後までお側におります」
「健気だねぇ」
主人が運命を受け入れているのだ。従者である私がそれを否定するわけにはいかない。私もノクト様と同じくただ受け入れるだけだ。抗わず、ただ静かに。
「レティ、帰るぞーっ!」
「はい、旦那様」
夜の闇を背に、ぼんやりと淡い光を放つノクト様。まるで月が地上に降りてきたかのようだった。その周りにちらつく星々の一つとして、隣に浮かぶことを──どうかお許しいただけるだろうか。




