第2話 旦那様の理想の出会いを演出したら全否定されました
月の国、クレスツェントに太陽が昇ることはない。だからといって暗闇に支配された陰鬱な土地かといえば、それも違う。
私たちは太陽の代わりに巨大な三日月と燦々と輝く星明かりを浴びて生きているのだ。この場所で暮らしていくときの唯一の悩みといえば、時間の感覚が狂いがちになることくらいだろうか。
「そろそろ街に出るかぁ」
朝の書類仕事をこなし、昼食を終えたノクト様は大きく伸びをしながら私を促した。彼のお昼からのお仕事は屋敷でこなすことができない。従者として、荷物の支度を手早く済ませる。発作の薬と水は、決して忘れることのないよう肌身離さず身につけて。
「参りましょう、旦那様」
「ん!」
私はノクト様の右斜め半歩後ろを歩く。この位置だけは誰にも譲ることのできない、自分だけに許された場所。
屋敷を出る際に必ず通る庭では、剪定作業をする人影が見えた。穏やかな笑みを浮かべ、銀と白の髪が混じった初老の男性。彼は庭師ではない。
「アドリ、行ってくる。家を頼んだ」
「ほっほ、任されました。行ってらっしゃいませ」
イーエン家の家令、アドリ様だ。屋敷のことは彼がすべて把握していると言っても過言ではない。生活魔法のプロフェッショナルであり、あらゆる仕事を難なくこなす。まさに完全無欠の人物。
アドリ様に逆らえる者など、この屋敷には存在しない。主人でさえも例外ではなく、彼を怒らせてはならないというのはイーエン家に仕える人間が最初に叩き込まれる教えである。
アドリ様に見送られ、屋敷の門にたどり着く。私はノクト様を門の端へと誘導し、その背後へ回り込んだ。
「では、旦那様。私の合図に合わせて門の外に一歩踏み出してください」
「なんでぇ?」
ノクト様は私がなにをしようとしているのか、まるで見当がついていない様子だった。私とて主人の命令を迅速かつ確実にこなす優秀な従者。仕込みに抜かりはない。
「魔法で運命を演出させていただきます」
幻影を見せる魔法。高度な魔力操作が必要な上、私の魔力量では一日に一度しか行使できない切り札だ。この魔法で釣書のご令嬢の姿をノクト様に見ていただき、私が思い描いた運命の出会いを体験してもらう。
それを気に入っていただければ、現実のご令嬢にそれを再現してもらうという寸法である。これでノクト様からの命令を完遂できる──我ながら完璧な段取りだ。
目を閉じて、イメージを極限まで研ぎ澄まし、魔法を発動する。霧のような魔力が形を成していく気配を肌で感じ取ると、私はノクト様の背中を思い切り押した。
「どわっ」
幻影のご令嬢と、よろめいた彼が見事にぶつかる。派手に転んで座り込んだ令嬢は口に咥えていたパンをぽろりと落とし、鋭い視線でノクト様を睨みつけた。
『いったぁ〜い、どこ見て歩いてんのよっ』
ちなみに、この仕草もこだわりのひとつだ。ノクト様は詰め寄られるのがことのほかお好きだからである。いつも私が冷めた目で見るたびに顔を赤くして喜んでおられるのだから、間違いない。
ノクト様は私の隙もない仕掛けに声も出ないのか、呆然と立ち尽くしている。はやく倒れたご令嬢に声をかけていただかなくては。
「…………お怪我はありませんか、麗しいご令嬢。どうぞ、手を」
『ふ、ふん。アンタのことなんて、これっぽっちも好きじゃないんだからねっ』
決まった。これぞノクト様の好みを的確に突いているだろう。助けてもらったにもかかわらずお礼のひとつも言わないご令嬢など、本来なら嫌われてしまうところだが我が主は違う。ここから恋が花開くはず──。
「なんか違ぁ〜う!」
ノクト様が放つ魔力の風圧だけで私の幻が消え去ってしまった。不服そうな顔をしながら、ずんずんとこちらへ迫ってくる。
そしてぴくりとも動かない私の顔を無理やり動かすために、ノクト様は頬を掴んで伸ばしたり縮めたりしてきた。
「ご令嬢がカチカチの長期保存できるパン咥えて走っているわけないだろぉ!?」
「書物には、突然の出会いが最高のシチュエーションだと」
「こんな手垢のついたものなど認めん!」
手垢だなんて。数多くの本を読み込み、これならノクト様に気に入っていただけると思ったのに。まだまだ勉強が足りないようだ。
「申し訳ございません。次こそは、ご満足いただける運命をご用意いたします」
ノクト様はただ「ん〜」と間延びした返事をされる。街へと向かう私たちを、頭上の巨大な三日月が照らしていた。
「ノクト様ーっ、見てくれよこの虫!」
「ひいっ、近づけんな! 調子に乗るなよこのガキーっ」
「あ、ノクトちゃん。いまならサービスするからアイスどうだい?」
「サービスされたらお腹壊すからいらんっ」
商店の立ち並ぶ通りを歩くたび、誰もがノクト様の名を呼ぶ。この国の人々は彼を領主様とは呼ばない。それは月の国の人間にとってノクト様が遠い存在の領主ではなく、友のように寄り添う人であることの何よりの証だった。
「旦那様、書店に寄りたいのですが」
「ああ、いいよ。俺も新刊出てるか見たいし」
私が寄りたい理由はひとつだけ。ノクト様に満足していただける、まだ見ぬ運命の出会いを本から学ぶため以外にない。月の呪いのせいで床に伏せることの多い彼は読書家である。目の肥えた主人を満足させる未知のものを見つけ出すのはなかなかの難題だ。
物語の棚を品定めしていると、店主とこそこそ話し込むノクト様の姿が目に入ってきた。
「旦那、例のブツ入荷したぜ」
「なにっ!?」
「今回のは特に刺激が強いみたいでな。お前さんが最後まで読めるかどうか」
よほど楽しみにしていた一冊なのだろう。ノクト様はカウンターから身を乗り出している。きょろきょろと周囲を伺っていたが、悩んだ末にため息をついた。
「惜しいけど日を改めるよ……今日はレティがいるから」
私に見つかると、よほど都合の悪い本。それはつまり、ノクト様の真の好みが隠されているに違いない。これは是が非でも手に入れなければ。
私は彼の背後から店主様の前へ飛び出す。
「店主様。そちらの新刊を私に売ってくださいまし」
「嬢ちゃんが買うのかい!?」
「旦那様の理想とする女性がそちらに書かれているのですよね。ぜひ購入を」
財布を出そうとすると、ノクト様に背後から両腕をすくい上げられた。
「ダメダメダメーッ! レティにだけは絶対売らないでくれ!」
旦那様のためだというのに、なぜ。そのままずるずると店の入り口まで私は引きずられ、強制的に退店させられてしまった。
はやく行くぞと、ノクト様は早足で歩き出してしまう。せっかくのチャンスだったのに。しかし、ノクト様のお仕事の邪魔をするわけにもいかない。目的地に急がなければ。
「ヴァン様」
街から少し離れた公園にたどり着く。そして私はたくさんの猫に囲まれた人の名を呼んだ。彼はこちらに気づき、手を挙げて挨拶をしてくれる──盛大なくしゃみとともに。




