第28話 旦那様に看病されるのはこりごりです
「レティ、体調はどうだ!? りんご食べるかっ?」
本日、何度目かわからない「レティ」。五回目を超えたあたりで数えるのをやめた。旦那様の手には兎の形に切られた林檎たち。少し歪なそれは、きっとアドリ様に教えてもらいながら切ってくださったのだろう。お心遣いはとてもありがたい。ありがたいのだが、それはそれとして。
「旦那様……お静かに、してくださいまし……」
「う、うるさかった?」
体を起こすと、ノクト様の声が頭の中でぐわんぐわんと反響した。どうやら体調はまだ万全でないらしい。観劇デートのあと、疲れが出たのか珍しく熱を出してしまった。旦那様のことを考えすぎたせいもある。
「レティのこと、看病できるのが嬉しくってさ」
そんな従者の気持ちなど微塵も気づいていない主人は、いつもの礼だと言わんばかりに手厚い看病をしてくださる。ベッドの脇に椅子を持ってきて腰掛けたノクト様は、フォークに刺した林檎を口元に近づけてきた。
「ほら、あーんして」
「自分で食べられます……!」
フォークをかたくなに渡してくださらない。熱も下がっているから食べさせていただかなくても──と、断ろうとしたのに、また「レティ」と呼ばれる。ノクト様は笑ったまま、じっと見つめるだけ。命令に背くことができない従者の本能を利用するのは止めていただきたい。
仕方なく私は口を開けた。切っていただいた林檎が大きすぎるので、ちょうど半分ほどのところで噛み切る。
「んんっ!?」
しゃくっ、と果物のみずみずしい音。うまく食べられなかったせいで、フォークから残りの半分がシーツの上に落ちてしまった。口の端からも果汁が溢れて、汚さないように受け止めた手がベタベタだ。
「いま拭くから! 動かないでくれ」
濡れた布で、手と口の周りを丁寧に拭いてくださる。だから自分で食べると言ったのに。文句を言いたかったものの、口いっぱいに頬張ったせいで必死に咀嚼することしかできない。
「ごめんな、レティ」
表情で非難しても、ノクト様は幸せそうに笑うだけだ。次はもうちょっと食べやすいように切るから、と意気込んでいらっしゃる。そんな風に言われたら、怒るに怒れない。もう一口食べさせていただこうとしたとき、扉が規則正しく叩かれた。
「旦那様、お客様にございます」
部屋にアドリ様がお見えになる。彼の肩にはルナもいた。猫の素晴らしいバランス感覚で、落ちないように踏ん張っている。ノクト様の耳元で「自警団の……」とおっしゃっているのが聞こえてきた。おそらくヴァン様だろう。最近、よくお屋敷に来られている。
「ちゃんと寝て、はやく元気になるんだぞ」
「ひゃ」
優しく頬を撫でてくる手のひらに気を取られていたら、額に軽いキスをされた。なにが起こったのかすぐに把握できない私を置いて、ノクト様は部屋から出て行かれる。残されたのは──自分だけではなかったような。
ゆっくりとアドリ様の方へ視線を向けると、ばっちり見られていたようだった。みゃあ、とこれまたタイミングよくルナも鳴く。
「……もう寝ますっ」
「そうしなさい」
枕元にアドリ様は子猫を置かれた。すると彼女は海の底にいる化石のように丸まって眠り出す。顔の横がもふもふして気持ちいい。若干、占領されている気がしないこともないが……ルナのためならば首を痛めることくらい、どうということはなかった。
「アドリ様。少しだけ話せますか」
「ほっほ、いいでしょう。お前は昔から風邪を引くと寂しんぼになりますからね」
アドリ様には、幼いときからの自分というものを隅々まで知られてしまっている。私はシーツを持ち上げて顔を半分隠した。ちょっとだけ恥ずかしいから。
先ほどまでノクト様が座っておられた椅子に腰を下ろされる。屋敷を管理する最高責任者でいらっしゃるから、お忙しいだろうにそんな素振りはお見せにならない。こうやって落ち着いてお話しするのも、ずいぶん久しぶりだった。
「アドリ様は旦那様のご尊父様にお仕えしていらっしゃったのですよね」
「ええ、それがイーエン家に仕えるわたくしの役目ですから」
主従で結ばれたイーエン家とテルブルア家の絆は深く、その歴史は気が遠くなるほど長い。養子である私では知らないことも、アドリ様ならなにかご存知かもしれない。
「月の呪いについて教えていただきたいのです」
「……知って、お前はどうするのですか?」
やはり、彼だけが知っていることがあるのだ。月の呪いは、その身に吸収した彷徨い人たちの魔力によって命を落とす──ものではないのかもしれない。二十五歳と決まっている理由もきっと他にあるはず。
「希望があるのなら、それに賭けたいのです」
「旦那様がお望みでなくても?」
アドリ様の深い青の瞳も尋ねてくる。お前は自分の意思を貫く覚悟はあるのか、と。もしノクト様に縋りつかれてしまったら、私は彼の手を振り払うことができるのだろうか。
「迷いがあるのなら知ろうとしてはいけません」
答えられなかった娘に戒めの言葉を贈ってくださった養父は、静かに退出された。シーツを握りしめた手に、猫の舌がざりざりと襲ってくる。
「ルナ、痛いですよ」
どう生きればいいかなんて、以前までの私なら考える必要も迷う必要もなかった。いまはノクト様のそばで彼を看取る自分を想像しただけで吐いてしまいそうだ。私は一体、どうすれば──。
「みゃあ!」
ルナが高く鳴いた。扉の前に座って私を待っている。何度も鳴くので、ご飯の催促かもしれない。まだ重い体を起こし、私は子猫についていくのだった。




