第27話 従者は旦那様の運命から逃げていました
ゆっくりと舞台の幕が下りていく。運命に抗い続けた王子と令嬢、二人の物語はここで終わる。カーテンコールは幾度も繰り返され、もう幕が上がることはない。その瞬間、言い知れぬ充足感と寂しさが同時に押し寄せてきた。
拍手がまばらになり、鳴り止んでいく。もう少し、もう少しだけこの余韻に浸っていたい。そう思っている私に渡されたハンカチ。どうやら感極まって、いつの間にか涙が溢れていたらしい。受け取ったハンカチには猫の刺繍が施されていた。自分の贈ったものを使ってくださっていることに、顔がほころんでしまう。
退場を促すアナウンスが流れ、外套を羽織ったノクト様とともにホールを後にした。
「旦那様、どちらに向かわれるのですか?」
ノクト様はまっすぐ馬車に向かおうとされる。観劇の後はお茶でも飲みながら熱くお互いの感想を語り合うもの。劇場の近くに洒落たカフェがあるから、そこへ行きたいと言っておられたのに。
「ちょっと人が多いからさ。ヘィメンに行こう」
肩をぐっと引き寄せられ、大きな外套にすっぽりと包み込まれる。私が衆目に竦んでしまったから気を遣ってくださっているのだろう。ヘィメンならここより落ち着ける──繁盛していないなどと、失礼なことを思ってはいない──だろうから。
でも、せっかくのデートを自分のせいで台なしにしたくない。
「旦那様、私は大丈夫ですから……」
「レティ」
名前を呼んだきり、ノクト様はただにっこりと笑うだけだった。彼は癇癪を起こすことも、我儘を言うことも多いけれど、なにより従者を慮ってくださる。
ただ、笑顔で名前を呼んだあとなにも言わないとき──それは絶対に命令を聞けという合図だ。私はそれ以上言葉を返すことなく、おとなしく馬車に乗り込んだ。
「いらっしゃー……うぉ!? エクレティカっスか?」
「なにか、おかしいでしょうか?」
「んなわけねぇっス! 別嬪さんが来たから誰かと思ったんスよ!」
入店したヘィメンはやはり客が一人もおらず、静かなものだった。その分、フィルマ様の声がよく聞こえる。
案内されたのはカウンターでもテーブルでもなく、景色の良い奥まったソファ席だった。そこに腰を下ろすと、横に旦那様もお座りになる。
「あんたがドレスなんて着てるのはじめて見たっス」
運ばれてきたのはいつも頼むアイスコーヒーではなくハーブティーだ。ほのかなカモミールの香りに癒される。
「今日は観劇に行きまして」
「へえ〜? いま上演されてるやつって言ったら……」
「フィルマ」
話と興味が尽きない店員を遮るように、ノクト様はご自分の体で私をお隠しになる。
「邪魔しないでくれ」
口を尖らせた不機嫌な客などフィルマ様は大して気にも留めていないようだった。「はいはい、ごゆっくり〜」と鼻歌を口ずさみながらカウンターの奥へ戻っていかれる。邪魔だなんて……注文の品を運んでくださっただけなのに。
「レティの人たらし。いつになったら止めてくれるんだ?」
じっとりと睨んで、全身から不平を漏らしてくる。八つ当たりもいいところだ。
「言いがかりはよしてくださいませ。私は人をたらしこんでなどおりません」
「自覚がないだけじゃないかっ」
なだめすかしても拗ねてしまわれる。機嫌を直してくださるまでハーブティーを飲みながら待つことにした。黙り込んだまま時間が流れていっても、それすら心地よかった。
「……デート、どうだった?」
左半身に感じる温もりと重み。ノクト様が体を預けておられる。顔をそむけていても、耳が赤く染まっていた。
「とても幸せで、夢のようでした」
「本当に?」
「はい。一生の宝物です」
正直に自分の気持ちを口にした。こんな機会がなければ、従者が主人とデートをするなどあり得ない。今日だけは、ただのエクレティカとして旦那様のことだけを考えていられた。これ以上の幸せなんて、どこを探したって見つからない。
「宝物、か」
照れているのか、お茶を一気に飲み干してしまわれる。
「私も歌劇が好きになりました」
登場人物に自分を重ねる旦那様の感覚。それがようやく理解できた。きっと勝手にそうなってしまうのだ。自分の生き方と物語の中で生きる誰かの気持ちが交わったとき、心は音叉となって震える。
「俺はさ、あの王子の気持ちがよくわかるんだよ」
愛する人のために命を懸けることも厭わない。ノクト様が御自身を重ねるのは令嬢だとばかり思っていた。
「だって、好きな人が傷つくなんて嫌に決まってるだろ」
「旦那様は……? 怖く、ないのですか?」
他ならぬ、あなた様が。月の呪いで死ぬことが避けられない運命にある、その人が。それでもまだ、自分のために誰かが犠牲になることを拒むというのか。
ずっと隣にいたからノクト様の覚悟はもちろん知っている。それでも言ってほしかった。どうか怖いと、まだ生きたいのだと、そう言ってくれたのなら——私はなんだってできるのに。
「怖くないよ」
残酷なほど穏やかに笑っていらっしゃった。強がりなどではなく、それが本心なのだと表情が証明してくる。
「レティが、最後まで俺の側にいてくれるから」
彼の従者となってから変わることのなかった自分の信念。いつもなら言えていたはずの言葉が、喉から出てこない。旦那様がぎこちなく抱きしめてくださっても優しさが息苦しい。
かつてフィルマ様に心ないことをした報いなのだろうか。それともノクト様の運命から逃げ続けたからだろうか。私は大切な人のために足掻くことすら、はじめから許されていなかった。
自分で作り上げた罪は、甘いカモミールの香りがした。




