第26話 二人だけの世界って特別席にあったんですね、旦那様
「このお席で合っておりますか?」
ノクト様に案内され、たどり着いた席は文字通り特別だった。臨場感を肌で味わえる近さに舞台があり、舞台下にオーケストラの楽器が所狭しと並んでいるのも見える。
ベルベットに覆われた二人掛けの座席へ腰を下ろすと、座面が柔らかくて体が深く吸い込まれていく。
「羽毛に……包まれているみたいです……」
「ベッドみたいにフカフカだなぁ」
仕切り壁のおかげで周囲から私たちは切り離されていた。ブザーの音とともに明かりが落とされる。まるで二人だけの世界に閉じ込められたみたいだ。
「はじまるよ、レティ。俺の顔ばっかり見てちゃダメだぞ」
そんな、まさか、ご本人にバレていたなんて。実は今日一日、デート中はずっと旦那様を目で追っていた。上質な黒とロイヤルブルーのシルクベスト、揃いの三日月のブローチ、胸元からのぞく白いクラヴァット。それらを着こなしている彼から、目を逸らせる人間などいるだろうか。
「……はい、旦那様。善処いたします」
パッと舞台が明るくなる。歌劇が始まったのだ。スポットライトに当てられたのは、魔物の襲撃に疲弊した国の王子と、その婚約者であるご令嬢。国を救う術を見つけられない無力さが音楽にのせられる。
ノクト様から教えていただいたとおり、主演を務める王子役の歌唱力は群を抜いていた。嘆きが胸に刺さってくる。夢中になっていると、肘置きに置いていた手が突然掴まれた。
「だ、旦那様!?」
上から指を絡めるように握られている。観劇中にこんな好き勝手されてはたまらない。小声で「お止めくださいましっ」と強めに注意してから自分の過ちに気づいた。案の定、旦那様は甘くとろけた表情をしておられる。
しまった、喜ばせてしまった。調子づいた彼は、私の反応を楽しんでぎゅうぎゅうと力強く鷲掴んでくる。
「僕が喜ぶとでも思ったのか!?」
王子の台詞で我に返った。手は握られたままだが、集中しなければ。令嬢に国を救う特別な力があったと発覚する場面だ。だが、その力は彼女自身が犠牲になるという制約があった。
「私は戦うわ。この国の民を、貴方を守るために」
「君がいない世界なんて意味がない! 一人で生きてなんていけない!」
私の前を歩くノクト様がいない世界。ああ、重なる。もうすぐ訪れる自分の未来と。
『お前、ノクトの後を追ってしまうわよ』
たった一人残されたとき、私は生きていけるだろうか。フィルマ様やペルシスタ様みたいに、強く──。
「レティ? レティってば。大丈夫か?」
「あ、はい、旦那様。見入ってしまいました」
ちょうど一幕が終わり、ホールは明るくなっていた。観客のざわめきが聞こえてくる。声をかけられるまで少しも気がつかなかった。
「幕間だし、休憩しよっか」
ぼうっとしている従者を心配したノクト様が、飲み物を買いに行ってくださった。ホワイエで待っていると、後ろから頭にペシッと軽い衝撃が襲ってくる。扇で叩いてくる方なんてお一人しかいない。
「ごきげんよう、野良猫」
ペルシスタ様だ。彼女も観劇に来ておられたとは。ご子息のレヴェヴィア様は見当たらない。劇場では静かにすることを求められるから、誰かに預けていらっしゃるのだろう。
「ご機嫌麗しゅうございます、ペルシスタ様」
「今日はドレスを着てるのね。可愛いわ」
「そう、でしょうか」
「非道いわ。わたくしの言葉が信じられないの?」
私など比にならないほど美しい方がなにをおっしゃっているのだろう。もちろん直球に褒めていただけるのは光栄ではあるのだが。
「お前も観劇が好きなの?」
「いえ、しっかり観るのははじめてでございます。特別席までご用意いただいて……今日は、その、旦那様とデートの練習なのです」
「まあ!」
ペルシスタ様は合点がいった様子で、閉じた扇でご自身の手を打った。
「チケットを交換してほしいという人間がいたのよ。頭を地面に何度も打ちつけるから……しょうがなくチケットを譲ったのだけれど」
受付の男性がおでこを腫れ上がらせていたのは、そういうことだったのか。そこまでして特別席に案内したかった理由は謎のままだが、知らぬ間に実りの国の第三王女に迷惑をかけていたなんて。
どうやって謝罪したものかと悩んでいると、彼女はにやりと笑った。艶めかしい指先で顎を押し上げてこられる。また心を読んでいらっしゃるようだ。
「お詫びなら、違う日にわたくしとデートでいいわよ」
「お戯れを」
赤く光る瞳は動くことなく、じっとこちらを見つめたままだった。ペルシスタ様はなにも言わない。私が自分の気持ちを口にするのを待っていてくださる。優しくて、不器用なお方。
「ペルシスタ様のお言葉を思い出していました」
「そう」
彼女の長いまつ毛が伏せられる。
「お前は……フェルガントにならないでね」
それだけを言い残し、颯爽と立ち去ってしまわれた。フェルガント様──ペルシスタ様を愛し、彷徨い人になろうともそばにあり続けた騎士。私と彼の共通点など剣の道に生きる人間であることくらいだ。考えても考えても、意味が理解できなかった。
「え、えっ? ペルシスタ嬢?」
飲み物を二つ抱えたノクト様が戻ってこられた。元婚約者様とすれ違われたのだろう。困惑しながら首だけで何回も振り返り、お姿を確認しておられた。私が彼女と話をしていたと察すると、むっと不機嫌になられる。
「……なんの話してたの」
「劇の感想を、少し」
「本当にぃ? レティはすぐ俺を置いて他のやつと仲良くするからな」
なんという言い草だろう。黙ってヴァン様とデートをしたことを、彼はまだ根に持っているらしい。ペルシスタ様となにを話していたのかを、休憩が終わるまで問いただされた。
「今日は俺と! デートしてるんだからなっ。忘れるなよレティ!」




