第25話 旦那様と観劇デートなんて夢みたいです
ノクト様によって私の左胸に三日月が浮かべられる。しっかりと留められたブローチを眺めて、「これでよし」と満足げにうなずく。迷子が親を見つけて安心したような、そんな面持ちで。
「レティ、ドレスもよく似合ってる!」
「あ、ありがとうございます」
着慣れないドレス姿の従者を手放しで褒めてくださる旦那様の声が、屋敷の広間に響いた。歩くたびに、流麗なドレープが動きに合わせて波打つロングドレス。オフホワイトを基調に、裾には金糸で模様が控えめにあしらわれている。
ずいぶん前から用意してくださっていたオーダーメイドの品らしい。「俺の誕生日に晩餐会で着てもらおうと思っていたんだけど」とおっしゃっていたが……値段を考えてはいけない気がした。おそらく卒倒する。
裾を引っ掛けまいと意識を足先だけに集中させた──にもかかわらず、無情にも体が前につんのめってしまう。
「レティ、大丈夫かっ!?」
転ぶと覚悟して目を閉じた。だが、私の頭はいつまでも床に激突することはなかった。ノクト様の腕に支えられていたおかげである。必死に体勢を立て直そうともがいても、服が言うことを聞いてくれない。
「申し訳ありません! 旦那様はまだ病み上がりですのに」
「大丈夫だって。心配性だな」
旦那様は上機嫌らしく爛漫な笑顔だ。お元気そうにしていらっしゃるが、熱が下がってまだ三日しか経っていない。
熱で意識がはっきりしていなかったはずなのに、私の言った「デートをしてほしい」の一言を執念深く覚えておられたようで──体力が落ちておられるから日を改める提案をしても、もちろん聞く耳など持ってくださらない。
そこで彼の好きな観劇にお誘いすることで折り合いをつけた。鑑賞をするだけならお体に負担はかからないだろう。屋敷の門前には、劇場まで乗せていく馬車がすでに止まっていた。
「こらっ、今日はデートなんだぞ!?」
つい従者の癖で、先に乗り込もうとすると咎められた。ノクト様が手のひらを上に向けて、こちらへ差し出してこられる。
「レティ、手を」
「はい、旦那様っ」
見つめてくる瞳もその表情も、恋人に向けるものみたいだった。顔に熱が集まるのを感じつつ、差し出された手をとって馬車に乗り込む。これはただのフリなのだと言い聞かせても、もう一人の自分が舞い上がっていた。ドレスを着て、エスコートされて──旦那様とデートなんて、夢みたい!
月の国クレスツェントの劇場は、世界で三本の指に入る規模を誇る。この国には舞台を楽しむ人間も、舞台人としてそこに立つことを目指す人間も多い。
従者として同行するときは、いつもロビーで待つか、入り口付近に立って警護をするかのどちらかだった。席について観劇を楽しむなんて、はじめてに近い。
「またきたのか? ノクトもよく飽きないなあ」
「何回も見るのが観劇の醍醐味だろ。ほら、チケット」
劇場の常連である旦那様は関係者の方と親しげに言葉を交わしておられた。彼はロビーで時間を潰す私にもよく話しかけてくれる人だったが、今日はやけにこちらをじろじろと見てくる。
「もしかして、エクレティカ?」
「左様にございます」
受付の男性が演者顔負けの声をあげて驚くと、周囲にいた人々の視線が、一斉にこちらへ集まった。好奇な眼差しを向けられているのはノクト様ではなく、私?
なんとも言えない居心地の悪さ。目線で値踏みされることに怖くなって、お袖を軽くつかんでしまう。
「旦那様、私の立ち振る舞いでおかしなところはありますか」
「なんでぇ?」
「悪目立ちしております。ドレスが似合ってない、とか……」
語尾がどんどん小さくなっていく。劇場には各地から訪れる、名のあるご令嬢たちも集まっているのだ。隣に立つ自分がノクト様に相応しく映っているのか自信がなかった。デートに慣れてもらわなければ、などと彼に言っておきながら不甲斐ない。
「レティ」
名前を呼ばれて顔を上げると、ノクト様の手に頬が包まれる。
「デートなんだから、そんなこと考えなくていいんだ。安心しろ、今日のレティは……すっごく可愛い!」
きっとその言葉に嘘はない。おべっかなど口にしない人だから、柄にもなく照れてしまった。ちょっと情けないけれど、私に縋り付いてくるいつもの領主に戻ってほしい。
「デートぉ? あ、なるほど。そういう……二人とも、ちょっと待ってな」
受付の男性は呆気に取られていた様子だったが、慌ただしくホールへ駆けていった。
「なんだ、あいつ。まあいいや、プログラム欲しかったし」
歌劇のプログラムを買うノクト様の後ろをついて行く。渡されたパンフレットには向かい合う男女。今回の演目は、国を救うため運命に翻弄された二人の生涯を描いたものらしい。人気が高いらしく、演者を変えてたびたび再演されているのだとか。
「今回の主演は歌唱力抜群なんだって。楽しみだよなあ」
「旦那様は歌劇がお好きですよね」
うん、と冊子を眺めながら、ぽつりぽつりと呟かれる。
「人間の熱情っていうものがさ、直接肌に刺さってくるみたいで。生きてるっていいなって思うんだよ──歌に乗せるとなおさら」
別れの悲しみを誰よりも知る人だからこそ、生きる喜びをその身に感じていたいのかもしれない。
見どころや鑑賞時のマナーを教わっていると、物凄い勢いで走ってくる人影があった。肩で息をしている受付の方だ。彼は息を切らしたまま、二枚のチケットを差し出してくる。
「ほらよ! 今日はこの席に座りな」
「いや、お前……おでこどうしたんだ?」
どこかでぶつけたのだろうか。額が真っ赤になっている。渡されたチケットは、先ほどのものとは違って高級感のある紙に煌びやかな縁取りが施されていた。
「これ特別席じゃないか? 俺たちは普通の席で」
「うだうだ言ってねえで、受け取れってんだ!」
「ひっ! わ、わかったよぉ……」
あまりの気迫に押され、ノクト様は渋々受け取っていた。なんなんだよ、もう……とぼやきながらも、手を繋いだままホールまで連れて行ってくださる。
「足元に気をつけるんだぞ」
「はい、旦那様」
落ち着かない、なのに気持ちはどこか満たされている。防音性のある重い扉が開かれた。デートはまだ、始まったばかり。




