第24話 どうか旦那様、泣かないでくださいまし!
仕立て屋に植物園と、限られた時間の中でいくつもの場所を巡った。屋敷へ戻る前に、ヴァン様お気に入りの公園で足を休ませる──はずだったのだが。
「足が痺れてきました……」
猫たちの楽園に迷い込んだ私は、身動きが取れなくなっていた。仲間の一員として認められたのか、それともここにいる猫が人懐っこいのか。我先にと膝の上で丸くなって、いくら撫でても逃げない。
「レティ! はい、これ」
「きゃっ!? 〜〜っ、おふざけはよしてくださいませ」
「ははっ、可愛い声じゃーん」
冷たさから変な声が出てしまった。ヴァン様が後ろから、露店で買ってきてくださった飲みものを、首へ押し当ててきたのだ。悪気はないのだろうけれど悪戯が過ぎる。ただ、今日だけは強く彼を咎めることができない。
「ヴァン様。お付き合いいただいて、ありがとうございました」
本当に多くの素晴らしい女性たちを紹介していただいたものだ。デートと言われたときは面倒だと思っていたが……想像以上の収穫に内心ほくほくしていると、「あのさ」とヴァン様が気まずそうな顔で、私の足元を指さしてくる。
「デートしてるときって、好きな相手のことをずっと考えちゃうもんだよ」
足元には酒場のサブレ、植物園の土産屋にあったカモミールのポプリ、仕立て屋で見つけた猫の刺繍入りハンカチ──すべて自分で選んだノクト様へのお土産だ。いつの間にこれほど買い込んでしまったのだろうか。
「……私は」
「レティも自分の気持ちに素直になったら? あいつは喜んで受け入れると思うけどね」
もしも想いを打ち明けたなら、受け入れてくださるだろうとは思う。でも、ノクト様に「愛してる」だなんて死んでも言われたくなかった。だってそれは──ずっと隣にいた人間への憐れみからくるものだから。
そして彼は従者にそれを言えてしまう。底抜けに優しい、私の大好きな旦那様。だから言わなくていい。このままの関係が幸せなのだ。
「もう時間ですので。失礼いたします」
ベルトポーチから懐中時計を取り出すと、針は真上に差し迫っている。ノクト様が目を覚まされる前に戻らなくては。
くしゅん、というヴァン様のくしゃみを聞きながら、踵を返した。戻ろう、自分の帰るべき居場所に。
「レ、レティ……どこに……行って」
屋敷の入り口で、柱にもたれかかる旦那様が目に飛び込んできた。いただいた花束も、袋に入ったお土産も、なにもかも放り出して、倒れ込んでくる彼の体を受け止める。
「旦那様! しっかりしてくださいませ!」
息が荒い。旦那様の全身から発熱特有の熱が伝わってくる。脇の下から支えてもまともに座れず、頭がぐらぐらと揺れた。怪我をしないように、ノクト様の頭を太ももの上にのせて膝枕をする。
「エクレティカ、予定は白紙にしなさいと言ったはずです!」
アドリ様が屋敷の階段を小走りで降りてこられる。おそらく執務室で仕事をしていたところ、主人の不在に気づいて探しておられたのだろう。
「も、申し訳……」
「わたくしに謝罪など結構。お前は旦那様を看病なさい」
はい、となんとか返事をした。アドリ様がノクト様を寝室へ運んでくださる。その間に水とお薬を取りに行かなければ。ああ、やはり、お一人にするべきではなかった。ブローチを置いていかなければこんなことには──先に立たない後悔だけがぐるぐると渦を巻いていた。
額に当てた布はすぐに熱を持った。何度水で冷やしても、ノクト様の体温は下がる兆しがない。
「旦那様。お薬、飲めますか?」
声をかけると、重いはずの瞼をゆっくりと開けてくださった。上体だけ自力で起こしていただいたので、薬呑器を口元へと運ぶ。
薬といっても、月の呪いそのものを治すものではない。薬師に滋養をつける薬草を煎じてもらった、ただの粉だ。
「行ったんだろ。あいつと、デート」
もう一度横になったノクト様が恨めしそうに見上げてくる。高熱のせいか、目尻にはうっすらと涙が滲んでいた。看病すると言ったはずなのに、少しくらいなら大丈夫だと油断した──自分の落ち度である。
「……はい、申し開きもございません」
言い訳をせずに非を認めると、ノクト様の瞳から真珠のような涙がこぼれる。指で拭っても、とめどなく溢れる雫が頬を伝って耳へと落ちた。
「なんでぇ……俺の、従者なのに……デートっ、俺だって、したことない、のにぃ」
ただでさえ熱で呼吸が荒いというのに、しゃくり上げるものだから息が詰まりかけている。どうにか泣き止んでいただかなければ。
私は旦那様の手を握り、もう片方の手で彼の髪を梳いた。普段動かしていない表情筋を目一杯動かして笑顔を作る。
「旦那様。元気になりましたら、私とデートに行ってくださいまし」
「……本当、に?」
彼は手を握り返そうとされていたが、指先がかすかに動くだけだった。潤んだ瞳がぱちぱちと瞬きを繰り返している。デートでこの方の涙が止まるのなら安いものだ。それに──。
「私で慣れていただかなければ。未来の奥様とお出かけされるときに、旦那様は暴走してしまうに違いありません」
ノクト様はふにゃりと笑った。意識が朦朧とし、回らない舌でも必死に言葉を紡ごうとされる。
「レティ、お前だけだよ……俺に、未来の話ばっか、すんの」
そのまま目を閉じて、荒い息遣いのまま眠りに落ちてしまった。未来の話をするのが私だけ? 旦那様は終わりを受け入れて生きるだけ?
──そんな馬鹿げた話があってたまるものか。
愛しいこの方のためにできること。それを見つけられないのが、たまらなく苦しくて悔しい。私は眠るノクト様に気づかれないよう、額へそっと触れるだけの口づけをした。




