第13話 旦那様へ、家出しますので探さないでください
走り続けた。ただ、がむしゃらに。なにも考えたくなかった。息が上がり、心臓が胸をどれだけ早く打っても止まりたくない。
気がつけば、足は喫茶へィメンに向かっていた。そのままの勢いで、扉を思い切り押し開ける。
「ちょっとは優しく開けられないんっスか!?」
「レティじゃねーの」
声をかけられても、私は肩を大きく上下させるだけ。いつもなら真っ先にハンバーグを注文するところだが、今日だけはそんな気分になれない。
「どうしたんスか?」
俯いたまま、立ち尽くす私の異変に気づいたフィルマ様が不思議そうに首をかしげる。
私、エクレティカ・テルブルアは表情をほとんど動かさない。とりわけノクト様の前では。従者としてこの十年、彼への秘めた想いを言葉にも態度にも表情にも滲ませぬように自分を厳しく律してきたのだから。
だけど、この場所でなら──。
「ヴァン様……フィルマ様……」
お二人の名前を呼んだら、もう堪えきれなかった。目頭が熱くなり、我慢はあっけなく決壊する。普段から我慢している分までぼたぼたと零れ落ちる大粒の涙。嗚咽だけは漏らすまいと、それだけで精一杯だ。
「と、とりあえず座ったらいいっス! ねっ!」
フィルマ様は入り口で固まる私を店の中へ招き入れてくれた。促されるまま席につくと、隣に座っていたヴァン様は黙ってご自分のハンカチを渡してくださる。
「なんか飲むっスか? それとも、なんか食べる?」
「アイスコーヒーをっ……ください……」
「わかった、何杯でも作ってやるっス!」
「ケーキ! フィルマ、俺がもってきたケーキも出せ!」
ほどなくして並べられたアイスコーヒーと色とりどりのケーキ。美味しそうだけれど、こんなに食べきれない。
いつもは飄々としているヴァン様も、らしくなく慌てていらっしゃった。ノクト様と変わらないくらい面倒見のいい方だから、目の前で泣きじゃくる人間を放っておけないのだろう。
「……レティ、なにがあったか話せる?」
涙はまだ止まらない。けれど、アイスコーヒーで口を湿らせれば気持ちがいくらか落ち着いてくる。私はようやく話すことができそうだった。
「旦那様にお子様がいらっしゃいました」
お二人は顔を見合わせ、怪訝そうな表情を浮かべた。俄かに信じられないのだろう。「あいつが?」と、メモを目にしたときの私とまるきり同じ反応だった。
「むこうさんの連れ子っていう可能性はないんスか?」
「ご年齢がペルシスタ様と婚約されていたときと合致していて……髪も、旦那様と同じで」
婚約関係にあった頃のあの方たちは気安い友人同士のように見えていた。だが、そう思い込んでいたのは自分だけで──カナリア色の髪をもつあの子どもの存在が、ノクト様と彼女の間に確かな絆があったことの何よりの証だった。
もはやどんな現実逃避も許されない。店内を重苦しい沈黙が包み込んでいく。
「レティっ!」
それを切り裂いたのはカランとなった扉のベル。そして今は聞きたくない声。
すかさずヴァン様が腰に下げている魔導銃を抜き、ノクト様のこめかみかすめる軌道で撃ち抜く。
「いいか、わざと外したんだぞ。マジでどの面下げて来たんだ?」
短い悲鳴をあげながらも、彼は銃弾にひるむことなく店内に足を踏み入れてきた。
「隠し事なんて最低っスよ!」
まさに非難轟々である。出禁だ出禁、とフィルマ様は叫んで、追い返そうとしていた。ノクト様はお二人の制止を必死に振り払って膝もとへ縋りついてくる。
「レティ、ちゃんと話をしよう」
「お気遣いは無用です、旦那様。落ち着いたらすぐに戻りますから」
本当にペルシスタ様をお慕いしていらしたのか。あの子どもをどこで育てておられたのか。それならば、なぜ私に運命の花嫁を探してこいなどと仰ったのか。
「隠していたのは悪かった。でも聞いてほしくて」
力なく首を横に振った。聞きたいことは山ほどあったが、問い質すことなどできない。ノクト様は、今の今まで伝えてはくださらなかったのだから。
それはそうだ。だって私はただの従者にすぎない。決して自分はそれ以上の存在になれないという事実に視界がまた滲む。
「お願い! どれだけ罵ってくれても、蔑んでくれてもいいからぁ!!」
「馬鹿野郎、それあんたが喜ぶだけじゃないっスか!」
「見苦しい言い訳してねえで、とっとと帰れ!」
痺れを切らしたお二人に揉みくちゃにされながら、主人は店の外へと放り出されてしまう。最後に聞こえたのは「やだーっ」という、いつもの叫びだった。
「あんなやつもう見限って俺にしときな?」
「無理して帰ってやる必要もねえっス。エクレティカなら店で寝泊まりしてもいいっスよ」
また泣いてしまいそうだった。ヴァン様とフィルマ様の気遣いに甘えさせていただいてもいいだろうか。あと、少しだけ。
♢♢♢
「エクレティカ、どうする?」
結局、閉店時間まで居座ってしまった。ヴァン様はすでに帰ったあとだったが、フィルマ様は泊まっていくかと気にかけて尋ねてくださる。
「今日は帰ります。本当にありがとうございました」
私は感謝して深く頭を下げた。また来たらいいっス、と彼は笑って送り出してくれる。
三日月のブローチに触れ、目を閉じた。あのお方はお店の前で、ずっとお待ちになっているのが瞼に映る。帰ろう。この想いが決して報われないとわかっていても、やはりお側を離れたくなかった。
へィメンを出ると、階段に座り込んでいたノクト様が親をみつけた迷子みたいに駆け寄ってくる。
「レティ……!」
「申し訳ございません、旦那様」
「よかった──帰ってきてくれる?」
これほどの心配をかけてしまうとは。我ながら困った従者だ。それでも、こんな従者を待っていてくださる主人は世界中どこを探してもいない。
三日月の光が互いのブローチを照らすなか、私たちは帰路に着いた。
「ごきげんよう、ノクト。お久しぶりね」
広間のソファには絹のような黒髪をなびかせ、絵画と見まごう整った容姿の女性がお一人。旦那様の元婚約者、ペルシスタ・ツィトルス様に間違いなかった。




