第8話 おじいちゃんが怖かった
離れて暮らし始めてから、不思議な日常が続いた。
車で行ける距離に娘がいた。彼とは完全に切れていなかった。両親にはまだ何も言っていなかった。世間的には、まだ家族だった。
たまに娘に会いに行った。娘が悲しまないように、3人で出かけることもあった。彼と並んで歩いた。普通の顔をした。娘が笑っていれば、それでよかった。
空虚さには、もう慣れていた。
コロナ禍になった。
世界が急に静かになった。外に出られなくなった。時間だけが、余った。暇だったからYouTubeを撮り始めた。日常のvlogだった。特別なことは何も起きない動画だった。でも撮って編集して投稿する作業が、思いのほか楽しかった。自分の視点で世界を切り取ることが、楽しかった。
その頃、兄から連絡が来た。
結婚式以来、久しぶりだった。近況を話すうちに、今の状況を話した。離れて暮らしていること。籍を抜いたこと。
兄は少し黙って、言った。「すぐ親に言いなさい」
こういう時に兄は、回り道をしない。真っ直ぐに言う。その真っ直ぐさが、この時は助かった。
1人で実家に行った。
父と母が、どうしたのという顔をした。2人揃っているところに、私だけで来ることは、めったになかったから。
話し始めた。
不倫のこと。籍を抜いたこと。娘と離れて暮らしていること。全部、順番に話した。
父は静かだった。
静かに、激怒していた。声を荒げるタイプじゃない。でもその静けさの中に、怒りがぎっしり詰まっているのがわかった。娘を育てた父親として、私がされたことへの怒りだったと思う。
母は別のことを言った。
母親としての役割について、言ってきた。娘を置いてきたことについて。私はそれを黙って聞いた。反論しなかった。わかっていたから。母親がそう言うのは、当然だと思っていたから。
その日は、話ができたので終わった。
数日後、彼がいつものように私の実家に顔を出した。
娘を連れて、何も知らない顔で。
父は娘の前で、彼を激怒した。
後から母に聞いた。父が怒鳴り始めた時、母は娘を連れて外に出たと。娘はおじいちゃんが怖かったと、後から話していたそうだ。
その話を聞いた時、胸が痛かった。
娘には関係のない話だった。娘は何も悪くなかった。それでも、その場にいてしまった。知らなくていいことを、空気として感じてしまった。
子どもというのは、言葉より空気を先に受け取る。
それからも時間は流れた。
娘が小学校に上がった。入学式に行かなかった。運動会にも行かなかった。授業参観にも行かなかった。少しずつ、フェードアウトしていった。行事のたびに彼から連絡が来ることも、なくなっていった。
娘と彼も、元の家から引っ越していた。
新しい場所で、2人の生活が始まっていた。
私はその住所を知っていた。でも、押しかけることはしなかった。会いに行く時は、娘から連絡が来た時だけにした。娘のペースに合わせると、決めていた。
県外へ引っ越すタイミングが来たのは、そんな頃だった。
事情を知った友人からの誘いだった。新しい場所で、新しいことを始める機会だった。迷わなかった。
彼に手紙を書いた。
長い手紙じゃなかった。ありがとうとか、ごめんとか、そういう言葉は書かなかった。ただ、これから遠くに行くこと、娘をよろしくということだけ、書いた。
娘には会いに行った。
「遊びに来てね」と言った。娘はうんと言った。泣かなかった。強くなっていた、ようにその時は見えた。
じゃあね、と言って別れた。
振り返らなかった。
新しい場所へ向かう車の中で、私はずっと前を見ていた。バックミラーに映る景色が、どんどん遠くなった。泣かなかった。ただ、静かだった。
第二の人生が、本当に始まった。
あの朝、玄関でじゃあと言って飛び出した時から、ずっと続いていた修行が、ここでやっと、次のステージに入った気がした。
魔法使いになるというのは、つまりこういうことだったのかもしれない。
誰かの物語の脇役から、自分の物語の主役になること。
それだけのことだった。それだけのことが、こんなに時間がかかった。
次話→終章「ここはこうしたら?」




