第6話 所有物じゃない朝
仮面夫婦というのは、思ったより静かだった。
怒鳴り合いもなかった。冷戦もなかった。ただ、空洞があった。2人でいるのに、そこに誰もいないような感覚が、毎日リビングに漂っていた。娘だけが、その空洞を知らなかった。
兄の結婚式があった。家族3人で出席した。写真を撮った。笑った。おめでとうと言った。全部本物のふりをした。
娘が「お泊まりしたい」と言った。
温泉旅行に行った。娘が喜ぶ旅館を選んで、露天風呂に入って、夕食を食べた。娘はずっとはしゃいでいた。彼も笑っていた。私も笑っていた。
空虚だった。
楽しいふりをすることに、体力を使い果たす夜だった。旅館の布団の中で、天井を見ながら、私はいったい何をしているんだろうと思った。娘の寝顔を見た。この子は何も知らない。それだけが、私をその場につなぎとめていた。
彼はたまに、晩酌に私を誘った。
酒が入ると、近づいてきた。体を求めてきた。
私は応じた。
こんな彼でも、本能的に好きだった。頭でどれだけ整理しても、体の記憶は別のところにあった。涙が溢れることもあった。彼は気づいていたのか、いなかったのか。たぶん、気づいていなかった。私の演技が、よほど上手だったのだと思う。
外では、彼はいい旦那さんだった。
娘をよく可愛がって、近所の人には愛想よくして、私の両親にも丁寧に接した。私以外の全員が、彼を良い人だと思っていた。当たり前だ。私しか知らないのだから。
すり減っていく感じがした。
静かに、少しずつ、確実に。
その頃、地元に戻ってから仲良くなった親友に、初めて全部話した。
話しながら、自分でも驚いた。こんなに長い間、1人で抱えていたのかと。声に出して言葉にしたら、自分のことが急に他人みたいに見えた。こんなにひどい話だったのか、と思った。自分の中にあると、慣れてしまうのだ。おかしいことに。
親友は黙って聞いてくれた。
全部聞き終わって、言った。「籍、抜いたら」
その言葉が、扉を開けた。
証人になってくれると言った。子供同士を遊ばせながら、引越してきた時からずっとそばにいてくれた人だった。その人が言うなら、と思った。その人が隣にいるなら、と思った。
実はその頃、エンディングノートを書いていた。
本当に書いていた。もしもの時のために、娘へのこと、お金のこと、全部書き留めていた。それが普通だと思っていた。でも後から考えると、普通じゃなかった。それだけ、追い詰められていた。
親友が教えてくれて、よかったと思う。本当に。
彼に話した。「心がどうしても納得できないから、籍を抜いて事実婚にしたい」
彼はすんなりOKした。
拍子抜けするくらい、あっさりしていた。彼は日記を書く習慣があったから、口では何も言わなくても、本音はそこに書いてあった。便利だった。悲しい意味で。
役所に行った。書類を出した。
帰り道、空が妙に広く見えた。
胸の中で、何かがスッと動いた。もう私はこの人の所有物ではない、という感覚だった。所有物なんて思われていなかったかもしれない。でも私は、そう感じていた。その重さから、少しだけ、自由になった。
親にはまだ言えなかった。
彼との生活は、表向きは続いた。でも私の中では、すでに終わっていた。終わらせるための時間を、静かに積み重ね始めていた。
そしてある日、彼はバーテンダーになると言い出した。
アルバイトを始めた。起業したいと言って、事業計画書を持ってきた。アドバイスしてほしいと言った。
一眼レフカメラを買った。20万円のやつを、また借金して。
あの300万円は、私が10万円を渡して、一緒に返したはずだった。いつの間にか、また始まっていた。家に入れるお金も、遅れがちになった。催促するのも、嫌だった。家族に催促するという行為が、じわじわと私を削った。
頭がおかしくなりそうだった、と今なら言える。
あの頃の私は、ただ静かに、次の一手を考えていた。
離れて暮らすなら、娘はどうするか。
その答えを、私はすでに出していた。
籍を抜いて、自由になったはずだった。なのに、まだそこにいた。次の一手を考えながら、今日もご飯を作っていた。
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