第5話 娘が見つけた手紙
娘と2人の生活は、思ったより楽しかった。
実家から20分のアパートを借りた。家賃と彼からの仕送り数万円では足りないから、アルバイトを始めた。大変だった。でも、大変さの質が違った。重たくなかった。自分で決めたことの大変さは、誰かに強いられる窮屈さとは、全然違う。
無料で遊べる場所を探した。図書館で絵本をたくさん借りた。公園をはしごした。娘はどこへ行っても楽しそうだった。3歳の子どもというのは、場所より一緒にいる人間を見ている。私がご機嫌なら、娘もご機嫌だった。
「お父さんが来るまで、一緒に頑張ろうね」
娘に言うと、娘はうんと頷いた。その顔が可愛くて、胸が痛かった。
週に一度、電話しようと約束していた。
守られなかった。
最初は「繁忙期だから」と思った。次は「引越しの準備で忙しいのかも」と思った。その次は、もう何も思わないようにした。結婚しているから、大丈夫。そう自分に言い聞かせる回数が、少しずつ増えていった。
半年が経って、彼がこちらに来ることになった。
娘は大喜びだった。お父さんが来る、お父さんが来ると、何日も前から言っていた。私も楽しみだった。正直に言えば、楽しみだった。どんなにすれ違っていても、久しぶりに会えば何かが戻るかもしれないと、思っていた。
でも引越しの日程は、なかなか確定しなかった。
連絡も来なかった。変だな、とは思った。思いながら、考えないようにした。
やっと来た彼は、おかしかった。
心ここに在らず、という言葉がそのまま人間になったみたいだった。仕事も探していなかった。ぼんやりしていた。目が、どこか遠いところを見ていた。
数日後のことだ。
娘がリビングで何かを拾って、私に持ってきた。
「これなに?」
封筒だった。便箋が入っていて、レターパックも一緒にあった。娘は何のことかわからなくて、ただ拾って渡してきただけだった。
私は受け取った瞬間に、全部わかった。
血の気が引く感覚を、私はこの時で2度目だった。でも1度目とは違った。1度目は突然だった。今回は、体の奥で、知っていた気がした。どこかで、わかっていた気がした。
手紙の宛名を見た。
数年前に不倫していた、あの後輩だった。
娘が「どうしたの?」と顔を覗き込んできた。「なんでもないよ」と言って、笑った。その日の夜ごはんを作って、3人で食べた。普通に食べた。
そこから私は、動いた。
感情は後回しにした。まず事実を集めると決めた。彼のスマホのロックナンバーを探った。LINEの履歴を開いて、スクリーンショットを撮って、自分のアドレスに送った。証拠を積み上げた。彼にバレないように、日常を完全に普通のまま維持しながら。
娘のごはんを作り、洗濯をし、保育園の送り迎えをした。
その間ずっと、頭の中で事実を整理し続けた。
彼がある日、車で県外に一人旅行に行くと言い出した。仕事も決まっていないのに。私は「大移動してきたからショックが大きいんだろう」と言ってOKした。半信半疑だったから。信じたかったから。
後からわかった。その旅行も、彼女に会いに行っていた。
トドメになったのは、娘の誕生日の1週間前だった。
LINEを諦めた彼は、InstagramのDMを使っていた。私はそれを見つけた。画面の中に、彼の言葉が並んでいた。今すぐ会いたい。心を奪われている。それから先は、読むのが恥ずかしくなるようなやり取りが続いていた。
反吐が出そうだった。
気持ち悪い、という感情が、悲しみより先に来た。
その夜、私は再び彼女に電話した。怒鳴らなかった。泣かなかった。ただ聞いた。「好きな気持ちがあるなら、喜んで譲るけど、どうなの?」
彼女は言った。「遊びです」
私は言った。「なら、人の家庭を壊すのはやめた方がいいと思うよ」
電話を切った。怒る気力もなかった。
風呂上がりの彼が、何も知らない顔でリビングに来た。
「ねえ」と私は言った。「私のこと、もう好きじゃない?」
彼は少し間を置いて、言った。「好きじゃない」
私は頷いた。それから、全部話した。不倫相手に電話したこと。遊びだったこと。全部。
彼の顔が、歪んだ。
「別れないでほしい」と彼は言った。「娘のためにも」と言った。「お義父さんたちに負担をかけたくない」とも言った。
私は黙って聞いていた。
その夜、別れないを選んだ。
好きだったからじゃない。疲れていたからだと思う。戦う体力が、その夜の私にはなかった。
別れないを選んだ夜から、私は2人分の演技をするようになった。1人は妻で、1人は、もう終わりにしようとしている人間だった。
次話→第6話「所有物じゃない朝」




