第4話 君のわがままだからね
あの夜から、何かが少しずつ、ずれていった。
派手に壊れたわけじゃない。ひびが入った茶碗みたいに、見た目はそのままで、でも確かに割れていた。私たちはそのまま、割れた茶碗で毎日お茶を飲み続けた。
彼は酒に弱かった。
もともとそうだったのに、飲み会のたびに限界まで飲んだ。翌日は一日中寝ていた。娘と私でお出かけする回数が、自然と増えた。3人でどこかへ行く記憶より、2人でどこかへ行く記憶の方が、その頃から多くなっていった。
娘は彼によく懐いていた。
お父さんっ子だった。それは嬉しかった。彼が娘を可愛がっているのは本物だったから。でもその懐き方に甘えるように、彼は都合のいい時だけお父さんになっていた気がした。
娘が熱を出した日のことを、よく覚えている。
保育園から連絡が来た。迎えに行かなければならない。私は営業の最前線にいて、その日は外せない商談があった。彼は管理部で、調整が利く立場だった。私は当然、彼が迎えに行くと思っていた。話し合って決めていたわけじゃなかったけど、そう思っていた。
電話をかけた。状況を伝えた。
彼から返ってきた言葉は、こうだった。
「家族と仕事、どっちが大事なの?」
私は少し、沈黙した。
なんで、と思った。あなたが行けるじゃないか、と思った。でもその言葉が出てこなかった。私が外せない仕事をしている時に、その言葉を使うのか、と思った。責められている意味がわからなかった。
結局その日、私が商談を切り上げて迎えに行った。
それからしばらくして、会社のおばさんに呼び止められた。「旦那さんが言ってたよ、2人目ほしいんですけどねって」
私は笑顔を保ったまま、内側で固まった。
産後からずっと、タイミングが合わないことはあった。お互いの気持ちがすれ違う夜もあった。それは仕方ないと思っていた。でもそれを、会社のおばさんに話すのか。しかも、まるで私のせいみたいな言い方で。
デリカシー、という言葉じゃ足りなかった。
信じられなかった。
その頃から、私たちはだんだんお父さんとお母さんになっていった。夫婦という感触が、薄くなっていった。レスになった。体が離れると、心も離れた。心が離れると、体はもっと離れた。
私は家では彼を立てたいと思っていた。
でも会社では私の方が上に見られていた。その切り替えが、うまくできなかった。家に帰っても、どこか気が張ったままだった。彼も居心地が悪そうだった。2人の間に、役割の歪みみたいなものが積み重なっていった。
転職を考えるようになった頃、父が大病を患った。
故郷を出てから一度もホームシックになったことがなかった。そういう人間だと思っていた。でも、もう二度と会えなくなるかもしれないと思った瞬間に、何かが崩れた。帰りたい、と思った。理屈じゃなく、体が思った。
彼に話した。
「故郷に引っ越したい」
彼は少し考えて、「いいよ」と言った。二つ返事だった。
でもその直後に、こう言った。
「それは、君のわがままだからね」
笑っていたわけじゃなかった。怒っていたわけでもなかった。ただ、事実として言った、という感じだった。
チクリとした。
小さな棘が、胸の真ん中に刺さった。抜けなかった。その棘を抱えたまま、私は引越しの準備を始めた。会社に退職を伝えた。小さな会社だったから、2人同時はきついと言われて、私と娘が先に戻ることになった。彼は半年後に追いかけてくる約束だった。
娘と2人で、故郷へ向かった。
まるでシングルマザーみたいだと思った。でも不思議と、清々しかった。重たいものを少しだけ、置いてきた気がした。
その感覚の意味を、私はまだ、うまく説明できなかった。
離れて暮らし始めて気づいた。静かな方が、息ができた。それが何を意味するのか、まだ認めたくなかった。
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