第3話 さっきは楽しかったね♡
産後8ヶ月で、式を挙げた。
身内だけの、小さな式だった。故郷まで戻って、両親と近しい親族だけを招いた。華やかではなかったけれど、素敵だった。母が泣いた。父が珍しく優しい顔をした。初孫を抱いた両親の顔を見て、私はここまで来てよかったと思った。
娘はその日、白いドレスみたいなベビー服を着ていた。主役は私たちのはずなのに、全員の視線は娘に向いていた。彼も嬉しそうだった。本当に嬉しそうだった。
その式から、1ヶ月後のことだ。
産休から復帰した私は、営業の責任者に抜擢された。新卒6名のマネジメントを任された。正直、戸惑った。産休明けでいきなりそのポストは、荷が重かった。でも仕事は楽しかった。四苦八苦しながらも、充実していた。役員会議にも出るようになった。
彼は管理部に異動していた。
社歴では彼の方がずっと長い。でも外から見れば、産休明けの私が昇進して、彼が脇に回ったように映ったと思う。彼が可哀想、という空気が、薄くオフィスに漂っていた気がした。彼は負けず嫌いだったけど、それを表には出さなかった。出さない人だった。
会社の飲み会があった夜、彼は朝まで帰らなかった。
朝5時頃、タクシーで帰ってきた。ひどく酔っていた。酒臭かった。私は眠れないまま待っていて、むかついていた。娘の夜泣きをひとりであやしながら、こんな時間まで何をしていたんだろうと思っていた。
彼は玄関で靴を脱ぎながら、携帯をポイと床に置いた。
その画面に、通知が来た。
私は見た。見てしまった。
女の子からのLINEだった。「さっきは楽しかったね♡」
血の気が引いた。
体温が、すうっと下がる感覚を、私は今でも覚えている。心臓が一拍、止まったような気がした。名前に見覚えがあった。私の、直属の部下だった。
彼はそのまま寝室に倒れ込んだ。何も知らない顔で。
私はしばらく玄関に立っていた。娘が泣いた。抱き上げながら、頭の中だけが冷静に動いていた。怒鳴り込む気にはなれなかった。泣く気にも、まだなれなかった。
翌日も、会社で彼女と顔を合わせた。普通に接した。おはようございます、と言った。彼女も普通に返した。
数日後、私は1人で彼女に電話した。
怒鳴らなかった。責めなかった。ただ確認した。「もしかしたらだけど、そういう関係になってる?」穏やかな声で聞いた。うちの主人がごめんねって、そんなトーンで。
彼女は「すみません」と言った。口だけか、という感じで。
本人にも確認した。彼はキスはしたけどその先はないと言った。言い訳を重ねた。うざかった。ただただ、うざかった。
「もう二度と、悲しませるようなことしないで」
それだけ言って、終わりにした。
終わりにした、つもりだった。
不思議なことに、私の中の好きという気持ちは消えていなかった。ショックだった。傷ついた。でも彼のことが、本当に大好きだった。人間の感情は、理屈で動かない。それを、私はこの時初めて、自分のこととして知った。
仕掛ける側だった私が、初めて、仕掛けられた側の痛みを知った夜だった。
好きという気持ちは、裏切られても消えなかった。それが厄介だった。消えてくれれば、もっと簡単だったのに。
次話→第4話「君のわがままだからね」




