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第2話 プラスに戻らない人

妊娠に気づいたのは、朝だった。

脳内がパニックになった、というのが正直なところだ。妊娠したかった気持ちが全くなかったわけじゃない。でも23歳で、新卒2年目で、まだ会社にも内緒の関係で。どうしよう、という気持ちの方が、ずっと大きかった。

彼に話した夜、彼はすごく喜んだ。

その顔は、本物だったと思う。不器用な笑い方で、でも隠しきれない嬉しさがあった。私はそれを見て、少し息ができた気がした。大丈夫かもしれない、と思った。

親への報告、会社への報告、部署異動。やることは次々と降ってきて、考える暇もなく物事が動いた。私の実家は県外だったから、まず彼氏の存在を伝えて、それから会いに行って、それから妊娠を話して。順序がぐちゃぐちゃだったけど、両親は受け入れてくれた。初孫だったから、父も母も、喜びの方が勝っていた。

プロポーズは、なかった。

正確には、ちゃんとした形では、なかった。指輪がないとさすがにと思って、自分で買った。1000円くらいの、シンプルなやつ。彼はお金がないんだろうと思った。その時は、それだけだった。

後から気づく違和感、と今なら言える。

2LDKの部屋に引っ越して、生まれてくる子の準備をした。ベビーベッドを組み立てて、肌着を洗って、名前を2人で考えた。妊娠8ヶ月で産休に入って、体は重かったけど、気持ちは不思議と穏やかだった。

そのある日、お金の話をした。

結婚するなら、これからのことを決めておかないと。貯金はいくらある?生活費はどう分担する?私はエクセルで表まで作っていた。まじめな性格が、こういう時に出る。

彼の口から出てきた数字は、マイナスだった。

300万円。

交通事故の賠償金だと言った。県外で起こしてしまった事故で、その分割払いがずっと続いていると。毎月給与が入っても、返済でゼロになる。だからプラスに転じたことが、一度もないと。

私はしばらく黙っていた。

信じられなかった。でも、もう後には引けなかった。おなかの中に、すでに命がいた。

私は自分の貯金から10万円を出した。テーブルに置いて、言った。「これでプラスに戻して。父親として、頑張って」

彼は受け取った。

今思えば、あの瞬間に何かが決まっていた気がする。私が出す側で、彼が受け取る側。その構図が、この先ずっと続く予告編だったと、あの時の私はまだ知らなかった。

出産は、順調だった。

彼は立ち会いに来た。病院にも毎回一緒に来た。食べられないものが出ると、食べられるものを探して買ってきた。周りから「結婚して変わったね」と言われるくらい、献身的だったらしい。

女の子が生まれた。

彼は誰よりも先に泣いた。私よりも先に。娘を抱いた顔は、あの朝のオフィスで見た不器用な笑い方と、少し似ていた。

この人のことが、好きだと思った。

300万円のことも、指輪のことも、全部ひっくるめて。それでも、好きだと思った。

人間は、都合よくできている。

たしかに出産は、順調だった。でもその頃から、私は彼の笑顔を見るたびに、あの数字を思い出すようになっていた。マイナスは、お金だけじゃなかったのかもしれない。

次話→第3話「さっきは楽しかったね♡」

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