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第1話 仕掛ける夜

朝7時半のオフィスに、2人きりの時間があった。

教育担当だった彼と、新入社員だった私。特別な会話なんてなかった。ただ同じ空気を吸えるだけで、十分だと思っていた。

その季節が変わったのは、「彼女と別れた」という話を耳にした日のことだ。

彼女と別れたと聞いた日、私は何もしなかった。

そういう人間だった。焦らない。急がない。好機というものは、掴みにいくより、育てるものだと思っていた。小さな炎がポッと灯った感覚はあった。でもそれを顔に出すのは、まだ早かった。

それからも朝7時半の習慣は続いた。豆乳を2本持っていく習慣も続いた。変わったのは、私の中の体温だけだった。

作戦、と呼ぶには大げさかもしれない。ただ私は、自分が可愛く見える角度を知っていた。どういう表情をすれば相手が放っておけなくなるかを、理屈じゃなく、肌で知っていた。それを使うタイミングを、ずっと測っていた。

チャンスは、部署の飲み会の夜に来た。

私はその頃、会社ではまじめなキャラで通っていた。仕事は丁寧で、余計なことは言わない。飲み会でも騒がない。そういう印象を、意図して作っていた。だから誰も疑わなかった。私が計算していることを。

帰り際、彼に声をかけた。

「すみません、ちょっと酔ってしまって」

嘘だった。お酒は3杯しか飲んでいない。でも私は足元を少しだけ頼りなくして、困ったように彼を見た。彼は少し迷った顔をして、それからいつもの不器用な笑い方をした。

「送っていくよ」

車の中は静かだった。私はシートに浅く座って、窓の外を見ていた。酔ったふりをしながら、頭の中は完全に醒めていた。ここで何をするか。どう言うか。どんな顔をするか。全部、考えていた。

アパートの前で車が止まった。

「ありがとうございます」と言って、降りようとして、少し足をもたつかせた。「あの」と振り返った。「部屋まで、来てもらえませんか。鍵、開けられそうになくて」

嘘だった。全部嘘だった。

でも今だ、と思った。はっきりと、そう思った。

彼は黙って車を降りた。

部屋に入ってから、私は演じることをやめた。好きな気持ちだけが残った。正直に言えば、何をどうすればいいかは考えていなかった。でも自分をどう魅せれば相手が動くかは、知っていた。それで十分だった。

翌朝、彼は帰り際に言った。

「あのさ、付き合おっか」「うん」

私が仕掛けたくせに、その言葉を聞いた瞬間だけは、ちゃんとドキドキした。計算と感情は、混ざり合ったまま、この恋の最初に置かれた。

3日後、彼は言った。「なんか毎日帰るのめんどくさいな」私は笑って、鍵を渡した。

会社では上司と部下。帰宅後は2人だけの秘密。そのギャップが、たまらなく好きだった。朝のオフィスで素知らぬ顔をしながら、昨夜のことを胸の中だけで笑う。ゲームみたいで、ワクワクした。

あの頃の私は、自分が物語の書き手だと思っていた。

まだ、そう思っていた。

半年後、私は彼の財布の中身を知ることになる。


次話→第2話「プラスに戻らない人」

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