序章 朝7時半の豆乳
好きな人に仕掛けた。落とした。結婚した。
不倫された。籍を抜いた。娘を置いて家を出た。
悪者はいない。被害者もいない。
ただ、2人とも役者だった。
そういう話の、続きを書いています。
四月の朝は、まだ少し寒かった。
新卒で入った会社の、初めての出社。緊張で早起きしてしまったのか、気がついたらオフィスには私しかいなかった。蛍光灯をひとつひとつつけながら、自分のデスクを探して、まだ名前もない引き出しの前に座った。
そこへ、彼が来た。
「あ、もう来てたんだ」
特別な言葉じゃなかった。でも声が、思ったより低くて、柔らかかった。不器用そうな笑い方をする人だと思った。六つ上とは聞いていたけど、どこか少年みたいな雰囲気があって、私はその朝、密かに心を決めた。
この人の教育担当で、よかった。
彼には彼女がいると、しばらくして同僚から聞いた。そうか、と思った。それだけだった。好きになることと、手に入れようとすることは、別の話だ。関われるだけでいい。朝のオフィスで、同じ空気を吸えるだけでいい。そう自分に言い聞かせた。
だから私は、彼が毎朝7時半に出社することを覚えた。
翌週から、私も7時半に着くようにした。誰にも言わなかった。理由も作らなかった。ただ早起きをして、化粧を丁寧にして、会社へ向かった。
オフィスに2人しかいない、1時間半。特別な会話なんてなかった。彼はコーヒー味の豆乳を飲みながらパソコンを開き、私は少し離れたデスクでメールの返し方を練習していた。時々、業務の質問をした。時々、彼が独り言みたいに仕事の話をした。それだけだった。
それだけで、十分だった。
ある朝、コンビニで豆乳コーナーの前に立った。コーヒー味の隣に、ココア味があった。どっちが好きかな、と思った。いや、知らなくていい。でも手が、2本取っていた。
「あの、どっちか飲みますか」
デスクに置きながら言ったら、彼は少し驚いた顔をして、「ありがとう、じゃあこっち」とコーヒー味を選んだ。私はココア味を飲んだ。他愛のない話を少しして、またそれぞれの仕事に戻った。
窓の外で、桜がまだ散りきっていなかった。
私はその朝のことを、ずっと覚えている。好きな人と同じ空間にいるだけで、世界がすこし、やさしくなる感じ。何も起きなくても、何かが確かにそこにあった感じ。
それが変わったのは、「彼女と別れた」という話を耳にした、五月の終わりのことだった。
次話→第1話「仕掛ける夜」




