第100話 守れないもの
試験導入は、静かに始まった。告知は掲示だけで、式のようなものは何もしなかった。
対象は三校。出席率、進学率、改善指数。港で使われていた指標を、教育用に調整したものだ。調整に三週間かけ、削った項目のほうが残した項目より多い。
公開の形式も慎重に設計されている。単純な順位は禁止。個人情報は非公開。改善の曲線を主軸とした表示。理屈としては、問題ない。少なくとも、そう思われていた。
最初の三日は平穏だった。保護者の反応も悪くない。
「見えるようになるのはありがたい」
「学校の努力が分かる」
好意的な声が多かった。窓口に届いた意見のうち、否定は二件しかない。
だが、四日目に空気が変わった。きっかけは、小さな記事だった。
『改善率最低の第三中学校』
本文は事実を述べているだけだ。だが、見出しは単純だった。そして、それで十分だった。
「拡散速度、想定の三倍です」
ヴァルドが言う。画面には、記事の転載とコメントの連鎖が並んでいる。連鎖の伸び方に、見覚えがあった。
「順位は禁止されているはずでは」
「公式には存在しません」
アルノーが答える。公式には、というところで一度切った。
「ですが、外部は自由です」公開は、内部で完結しない。外に出た瞬間、意味が変わる。
その日の午後、一件の報告が上がった。教室での出来事を、担任が三行だけ書いたものだった。エリシアはそれを読んで手を止める。
「……現地に行きます」
短く告げた。誰も止めなかった。
向かったのは、記事に名前が出た第三中学校だった。校舎は静かだった。だが、空気は重い。案内された教室の前で、足が止まる。
中から、笑い声が聞こえた。軽いものではない。刺すような声だ。
「ほら、改善率最低」
「お前らの学校、終わってるじゃん」
教師の制止の声。それでも、止まらない。エリシアは扉を開けた。教室が一瞬で静まる。視線が集まる。
その中に、一人の少女がいた。俯いたまま、動かない。机の上に、算術の練習帳が開いたままになっている。今日の日付の欄まで、毎日埋まっていた。
「少し話せますか」
放課後、校舎の裏で。
少女は名乗らなかった。ただ、ぽつりと言う。
「……見られてる感じがする」
エリシアは何も言わず、待った。
「別に、嘘じゃないんでしょ。うちの学校、数字が低いんでしょ」事実だった。だからこそ、否定できない。
「でも」
少女は顔を上げた。まっすぐな目だった。
「私は、その数字じゃない」
言葉が止まる。
「私、頑張ってるよ。友達も、先生も。でも、それはどこにも出ない」風が吹く。言葉が、胸に残る。
「……私は統計じゃない」その一言は静かだった。だが、重かった。
エリシアは、返す言葉を持たなかった。制度は正しい。構造も間違っていない。だが、守れていない。何かを。
「名前を、伺ってもよろしいですか」
しばらくして、彼女は聞いた。
少女は、しばらく黙っていた。
「言ったら、書くんでしょ」
「書きません」
「じゃあ、なんで聞くの」
エリシアは、すぐには答えられなかった。
「……分かりません」
正直にそう言った。
少女は少し笑った。笑い方が、大人びていた。
「聞かない人ばっかりだったから、いいよ、別に」
名前は、言わなかった。エリシアも、もう一度は聞かなかった。
帰り道、港はいつもと同じように動いていた。貨物が運ばれ、取引が成立し、公開は機能している。だが、学校では違う。同じ仕組みが、違う傷を生む。
本部に戻ると、ヴァルドが顔を上げた。戻りが遅かったことを、彼は聞かなかった。
「現地は」
「……想定内です」嘘だった。想定はしていた。だが、実感はしていなかった。
「公開は広がります。ですが、同じ形では使えません」
言ってから、自分がそれを二年前から知っていたことに気づいた。知っていて、書かなかった。
窓の外、港の灯りが揺れる。
あの日、自分は制度を作った。腐敗を防ぐために。責任を残すために。だが今、その制度が、別の場所で誰かを傷つけている。
エリシアは提案書を開き、空けておいた四つ目の行に、ようやく書き入れた。
『数えられた本人が、名前を言いたくなくなる指標は、使わない』
書いてから、しばらくその一行を見ていた。守れないものがある。それでも、選ばなければならない。
少女は名乗りません。エリシアも二度は訊きません。この二人がなぜそうしたのかを、私はここでは説明しないことにします。次は王宮の会議室です。「止めるか」と問われて、エリシアが港とは違う設計を口にします。




