第99話 数値にならないもの
ハルフェン本部の会議室には、いつもより多くの資料が並んでいた。教育省からの提案書だった。表紙の綴じ紐が新しく、まだ折り癖がついていない。
『公開枠組み応用案 教育機関改善指数公開モデル』
エリシアは静かに頁をめくる。出席率、進学率、中退率、改善指数。公開制度と同じ構造だ。欄の並びまで、港の様式をそのまま写している。
「教育分野への応用です」
説明しているのは教育省の官僚だった。話し方に淀みがない。何度も説明してきた案なのだと分かる。
「港湾都市の成功を受けて、政府としても透明性を拡張したい」
ヴァルドが資料を覗き込む。覗き込んでから、語尾を濁した。
「学校の改善率を公開する……」
「はい。低評価の学校には支援が入り、高評価の学校はよい例として共有されます」
理屈としては整っている。公開制度と同じだ。問題がある場所を見えるようにし、改善を促す。だが、エリシアはすぐに頷かなかった。
「対象は」
「まずは三校です。試験導入です」王宮でも、同じ資料がレオンハルトの前に置かれていた。
「教育か」
王子は短く言う。教育か、と言ったきり、しばらく先を続けなかった。
「政治的には歓迎されます。透明性は支持が高い」
側近が言った。支持が高い、というのは、政治の場では強い理由になる。
「だが教育は敏感だ」
王子は窓の外を見る。王宮の窓からは、学校も港も見えない。
「子供は市場ではない」ハルフェンの会議室は静かだった。エリシアは資料を閉じる。
「目的は」
「教育格差の是正です。数字で現状を可視化し、支援を効率化します」
ヴァルドが小さく言う。同じですね、という言い方に、賛成の響きは無かった。
「理屈は公開制度と同じですね」
「ええ」
官僚は自信を持って頷いた。頷いたのは、同意を求められたと思ったからだ。
だが、エリシアは言う。
「教育は港ではありません」室内が少しだけ緊張する。
「港の数字は貨物です。教育の数字は人です」
官僚は反論した。反論の中身は、二年前にこちらが議場で使った言葉と、ほとんど同じだった。
「だからこそ改善が必要です。見えない問題は解決できません」その理屈も正しい。公開制度も、同じ思想で始まった。
「一つ、伺います」
エリシアは言った。
「この指数で低い評価が出た学校の生徒は、その数字を見ますか」
官僚は少し考えた。考えたあとの答え方に、癖が出た。
「公開ですから、見られます」
「見ますか、ではなく、見られますか、とお答えになりましたね」沈黙が落ちた。
「港の数字は、貨物が見ません。教育の数字は、数えられた本人が見ます。港では起きなかったことが起きます」
「では、どうしろと」
「条件をつけます」
エリシアは言った。
「単純な順位は禁止。改善の曲線を主な指標にする。そして、子供個人の情報は絶対に出さない」
官僚は頷いた。
「当然です」だが、エリシアは知っている。数字は、歩き始めると止まらない。公開は広がる。そして必ず、想定していない場所に届く。
会議が終わり、ヴァルドが言った。資料を抱えたまま、扉のところで立ち止まっている。
「教育まで来ましたね」
「ええ。制度は国家に根付き始めています」
エリシアは窓の外を見た。港は穏やかだ。公開制度は、今のところ安定している。だが次の波は、港ではない。学校だ。
「人は数字ではありません」
小さく呟く。それでも、人は数字を作る。
彼女は提案書の余白に、条件を三つ書き込んだ。書き込んでから、四つ目の行を空けておいた。四つ目に何を書くべきかは、まだ分からなかった。
「見ますか」ではなく「見られますか」と答えた官僚は、悪い人ではありません。港の書式をそのまま持ってきただけで、それがこの話でいちばん怖いところです。次に広がるのは、一本の記事の見出しです。エリシアは第三中学校の校舎の裏で、一人の少女と向き合います。ブックマークと評価は、数値にならないものの欄に入れておきます。改善率には載りません。




