第97話 選び続けるということ
王宮の回廊は、夜になると静かだ。窓の外には、港の灯りが遠くに見える。
レオンハルトは欄干にもたれ、海のほうを見ていた。石の欄干は昼の熱が残っていて、夜でも少し温い。足音が近づく。
「呼びましたか」
エリシアが隣に立つ。
「一度、区切りを確認しておこうと思ってな」
王子は冗談めかさずに言った。区切り、という語を使うのに、少し間があった。
「終わってはいません」
彼女は即答した。区切りという言葉に、一度も頷かなかった。
「だが、一度は越えただろう」
沈黙が落ちる。確かに、越えた。制度は揺らいだ。内部からも、外部からも。止める選択肢もあった。だが、止めなかった。止めなかった理由を、いま言葉にできる気がしない。
「私は、維持を選んだ」
王子が言う。
「あなたは、一時停止を選んだ。どちらが正しかったと思う」
エリシアは少しだけ考えた。正しかったほうを選べ、という問い方ではなかった。
「どちらも、必要でした」
王子は小さく笑う。曖昧だな、と言う声に、責める調子はない。
「曖昧だな」
「曖昧です。制度は二択では動きません」
風が吹く。海から上がってくる風で、夜のこの時刻にしては生温い。
「公開は正義ではありません」
エリシアが言う。
「それはもう分かっています。正しさを証明する制度ではありません。責任を残す制度です」
王子は視線を向けた。責任を残す制度、という言い方を、彼はどこかで書き留めるつもりでいる。
「責任は重い」
「ええ」
「だから揺らぐ」
短い沈黙。だから揺らぐ、と言い切られると、返す言葉が要らなくなる。
「あなたは強くなった。揺らぐことを受け入れた」
「強くはありません。ただ、選び続けるだけです」
言ってから、自分の声が思ったより静かだったことに気づいた。
公開を、修正を、段階を。完成はない。だが、選択は続く。続けるほうが、始めるより難しい。
「次は、公開の外側だな」
「はい」
「制度が強くなれば、影も濃くなる」
王子は頷く。国家も同じだ、という言い方に、諦めは入っていない。
「国家も同じだ」
海の向こうに、薄く月が浮かんでいた。月は細く、海面に道を作るには足りない。
「一つ、報告があります」
エリシアが言った。
「リーデン町から返事が来ました。新しい様式で、書式を整えるのに要った日数です」
「何日だった」
「二十三日です」
王子は眉を上げた。二十三、という数字を、彼はすぐには受け取らなかった。
「十二日と試算していたのでは」
「試算しました。外れました」
彼女は言った。
「ですから、二十三日と書き直しました。試算の十二日は、消さずに残してあります」
「消さないのか」
「消せば、次に試算する人が、また十二日と書きます」
王子はしばらく黙っていた。それから、短く笑った。消せば、次に試算する人がまた十二日と書く。その理屈を、彼は繰り返させなかった。
「私は国家を守る。あなたは制度を守る。だが、どちらも人のためだ」
エリシアは静かに言う。人のためだ、という言葉を、彼が先に言ったのは初めてだった。
「人は制度に揺さぶられます。だから制度も揺らぎます」
完全な一致ではない。だが、対立でもない。かつての婚約は、もうない。だが、対等な関係はある。対等は、どちらかが辞めると言えば終わる。終わらせない理由を、二人とも口にしなかった。
「選び続けろ」
王子が言う。
「私も選ぶ」
灯りが揺れる。回廊の端で、衛兵が交代の時刻を告げた。
エリシアは回廊を戻りながら、二十三という数字を頭の中で繰り返した。来年は、二十日を切りたい。切れなければ、切れなかったと書く。
試算を消さずに残す、というくだりは、私が仕事でいちばんよく踏む失敗を書いています。外れた予測を消すと、次の人がまた同じ数字を書く。当たった数字より、外れた数字のほうが後から効きます。次に届くのは、差出人の欄が空白の封です。中身は九つの町の数字で、並びが街道の順になっています。




