第92話 公の言葉
再開から十日。港湾広場に、再び人が集まった。だが今回は、怒号ではない。
告知は一つだった。アーデル・マルクス、声明発表。前の集会のときのような呼びかけの紙は、一枚も出ていない。
壇上に立った彼は、以前よりも静かな表情をしていた。壇は前回と同じ荷箱で、今度は四つ積んである。
「私はこの制度を批判してきました」
広場が静まる。批判してきました、という過去形を、全員が数えていた。
「今も、全面的に賛成しているわけではありません」
率直な前置きだった。賛成していない、と先に置いてから話す人の言葉は、後半のほうが効く。
「公開は、人を傷つけ得る。それは変わらない」
頷く者もいる。三十日前に、同じ場所で同じ言葉に怒っていた顔もあった。
「だが」
彼は、新しい表示画面を背後に映し出した。失敗履歴の上に改善率、経過年数、待った日数。その下に再評価の注記と誤差の範囲。彼は説明を足さなかった。足さずに、しばらく黙って映していた。
「以前は、失敗が単独で歩いていた。今は、物語が分断されにくい」
ざわめきが起きる。分断されにくい、という言い方を、記者が二人、同時に書き取った。
「完璧ではない。だが、制度は応答した」
その言葉は重かった。応答した、という語を選んだのは、たぶん偶然ではない。
エリシアは本部から中継を見ている。誰も声を出さない部屋で、画面の音だけが鳴っていた。
「一つだけ、皆さんに数字を出します」
アーデルは続けた。
「停止していた三十日のあいだに、私は制度の作業ログを毎日読みました。実装完了、十九件。実装断念、二件。断念のほうも、毎日そこに書いてありました」
群衆が静かになる。実装断念、という言葉を、この広場の大半は今日まで知らなかった。
「二十年、私は記事を書きました。断念したことを毎日書き続けた組織を、私は一つも知りません」
彼は表示画面のほうを指した。指したのは、断念の欄が並んでいる側だった。
「私は凍結を求めた。だが今は、監視を続けます。壊すためではなく、続けさせるために」
広場の空気が、わずかに変わる。続けさせるために、という言い方に、誰も野次を飛ばさなかった。
「透明性は理想ではない。だが、隠蔽よりはましだ。制度は人のためにある。だから、人の声で修正させる」
拍手が起きた。熱狂ではない。だが、否定でもなかった。鳴り終わるまでに、少し時間がかかった。
その夜、世論調査の速報が出る。支持、四十九パーセント。条件付きの支持、三十四パーセント。不支持、十四パーセント。
支持が初めて過半に近づいた。近づいただけで、届いてはいない。
王宮で、レオンハルトは資料を見て小さく息を吐く。
「政治は六割を目指すと言ったな」
「制度は、五割で立てるかもしれません」
側近が言う。五割で立てる、という言い方に、王子は否定も肯定もしなかった。
ハルフェンで、エリシアは広場の映像を見つめていた。アーデルは壇上を降り、群衆に紛れていく。誰かに肩を叩かれ、短く頷いてから、そのまま人の間に消えた。勝利宣言はない。だが、対立もない。
「一つ、気になることが」
ヴァルドが言う。気になること、と前置きしたわりに、声が明るい。
「作業ログを毎日読んでいた閲覧者は、六名です」
「六名ですか」
「はい。あの方と、記者が二人。あとの三人は、登録名がありません」
エリシアは短く笑った。三人という数を、彼女は嬉しそうに繰り返した。
「三人もいましたか」
「調べますか」
「いいえ」
彼女は言った。調べない、と決めるのが、この二年で少しずつ速くなっている。
「読む人がいたことだけ、記録に残しておいてください」
アーデルが壇上で出した数字のうち、いちばん地味なのは断念の二件です。断念を毎日書き続けた組織を、彼は記者生活で一つも知らなかった。登録名のない三人の閲覧者は、まだ調べません。次回、夜の埠頭で、王子がエリシアの最初の綴りについて訊ねます。名前が一つと、行が四つだけの紙です。ブックマークと評価は、公の言葉の原稿用紙の一枚目に足しておきます。




