第93話 揺らぎを抱えて
夜の港は、久しぶりに穏やかだった。抗議の声も、緊急会合の鐘もない。ただ、波の音と、遠くの灯りだけがある。穏やかな夜がどのくらいぶりかを、彼女はもう数えていなかった。
エリシアは一人、埠頭に立っていた。
再開から二週間。制度は動いている。崩れてはいない。だが、かつてのような確信もない。確信があった頃のほうが、たぶん危なかった。
「……強くなったわけではありません」
小さく呟く。
公開は万能ではない。それは、もう分かっている。正確さだけでは守れない。数字だけでは救えない。分かるのに、二年と三十日かかった。
それでも、止めなかった。止める自由もあった。延長する選択もあった。だが、選ばなかった。
足音が近づいてくる。埠頭の板は乾いていて、足音がよく響く。レオンハルトだった。供は連れていない。
「一人で考え事か」
「ええ」
並んで海を見る。距離は、一歩ぶん空いていた。どちらも詰めなかった。
「揺らいだな」
「はい」
「壊れかけた」
「ええ」
短い応答だった。揺らいだ、壊れかけた。どちらの言葉も、彼は責める調子では使わなかった。
「それでも、続いている」
レオンハルトの声は穏やかだ。議場で維持を主張したときの硬さは、もう残っていない。
「制度は、揺らいだまま立つ」
エリシアは静かに頷いた。揺らぎを認めないことが弱さでした、という一文は、この二週間で何度も書き直したものだった。
「揺らぎは、弱さではありませんでした。揺らぎを認めないことが、弱さでした」
王子が小さく笑う。以前のあなたは、という言い方をするとき、彼はいつも少し慎重になる。
「以前のあなたは、揺れなかった」
「揺れないふりをしていただけです」
少しだけ、空気が柔らいだ。波が一度、埠頭の下で大きく鳴った。
「一つ、聞いておきたい」
王子が言った。
「あなたが最初に作った綴りは、まだ増えているのか」
エリシアは、少し驚いた顔をした。あの綴りの話を、誰かから訊かれたのは初めてだった。
「ご存じでしたか」
「収量表の礼に、写しを一枚もらった。名前が一つと、行が四つだけの紙だ」
「増えていません」
彼女は答えた。
「二年、増えていません」
「なぜ書き続ける」
「増えないことが、記録だからです」
王子は海のほうを見たまま、しばらく黙っていた。増えないことが記録だ、という答えに、彼はすぐには返さなかった。
「私は国家を守る。あなたは制度を守る。だが、今は同じものを見ている」
海の向こう、港の灯りが揺れる。船の入りが少ない時刻で、灯りの数はまばらだった。
「公開は正義ではありません」
エリシアが言う。
「ですが、隠蔽よりは責任が残ります。だから選びます」
選択は、毎日続く。完成はない。完璧もない。だが、壊れにくくはなった。壊れにくいものは、壊れるまで誰も点検しない。
「次は何を守る」
王子が問う。
エリシアは少し考えた。次、と訊かれること自体が、二年前には無かった。
「公開の外です」
「外」
「制度の影響を受ける、もっと小さな単位です。家族、個人、地域。港だけではありません。国家だけでもありません」
風が吹く。冷たいが、心地よい。外套の裾が鳴って、二人とも黙った。
王子は歩き出しかけて、足を止めた。半歩だけ戻り、それ以上は近づかなかった。
「あなたの綴りに、二年ぶりの行が入るとしたら、それはどんな行だ」
「戻りました、の一行です」
エリシアは答えた。
「あるいは、戻りませんでした、の一行です。どちらでも構いません。空欄でなくなれば」
王子が持っている写しは、収量表の礼に一枚だけ渡ったものです。増えないことが記録だと言う人と、増えるとしたらどんな行かと訊く人。この二人の距離は、この頃からずっとこれくらいです。次に届くのは、内陸の小さな町からの書簡が一通。四つ目の数字には、どの様式にも欄がありません。




