第91話 揺らぎの中で
再開から一週間。レナ・クロイツの処遇が、最終の決定を迎えていた。
改竄は未遂。損害なし。自首に近い供述。だが、制度への侵入は事実だ。三つ並べて軽くなるものと、並べても軽くならないものがある。
会議室には、エリシアとレナだけがいる。書記も呼んでいない。呼べば、この先の話が供述になる。
「懲戒免職にはなりません。降格と、一定期間の監査下配置です」
レナは静かに頷いた。当然です、という返事を、たぶん昨夜のうちに用意していた。
「当然です」
「あなたの行為は間違っていました」
「はい」
迷いのない返答だった。間違っていた、と認めるのに、彼女は一度も条件を付けない。
「ですが、動機は理解しています」
レナの視線が揺れる。理解という語に、初めて反応した。
「理解されても、父は戻りません」
その声は、怒りではなく疲労だった。三年ぶんか、それ以上のものが混じっている。
「公開は正しかった。でも、父は職を失いました。改善も、努力も、数字になりませんでした」
エリシアは少しだけ間を置いた。ここで慰めを言えば、この人はもう二度と本当のことを言わない。
「今の様式なら、どうでしょう」
新しい四欄を示す。失敗履歴、改善率、経過年数、待った日数。端末の画面は小さく、二人で覗き込む形になった。
レナは画面を見つめた。父の名を探したわけではない。欄の形だけを見ている。
「前よりは……違います。少なくとも、最初の失敗だけではない」
「四欄目は」
「これは」
彼女は指を止めた。四つ目の見出しのところに、指の影が落ちている。
「父の場合、二年と四か月です」
「入りますか」
「入ります」
レナは言った。
「入るという言い方を、初めてしました」
沈黙が落ちる。入るという言い方を初めてした、という一文の意味を、エリシアはそのまま受け取った。
「私は制度を止めたかった」
しばらくして、彼女は言った。
「でも、本当は」
言葉が途切れる。
「本当は、見てほしかった」
その一言は重かった。失敗ではなく、その後を。見てほしかった、という言葉は、制度に向けられていない。
「制度は冷たい。数字は感情を持たない」
「ですから、注記を入れました」
エリシアは言う。
「制度が、少しだけ後から補足します」
レナは目を伏せた。伏せたまま、少しのあいだ動かなかった。
「完全ではありません」
「ええ。完全な制度はありません」
エリシアは静かに続けた。
「揺らぎは、内部にもあります。あなたの行為も、その一部です」
レナは顔を上げた。揺らぎは内部にもある、という言い方を、処分の言葉として聞いていない。
「私は戻るべきでしょうか」
「戻ってください」
即答だった。
「壊しかけた人間が、守る側にいます。それは制度にとって強い」
レナの目に、初めて微かな光が宿る。強い、と言われた側の顔ではなかった。
「……やり直します」
彼女は立ち上がり、扉のところで足を止めた。
「一つ、伺ってもいいですか。私が消そうとした人の履歴は、今どうなっていますか」
エリシアは端末を開いた。開くまでに、断ることもできた。断らなかった。
四欄が表示される。失敗、三件。改善率、上昇。経過年数、十一年。待った日数、記録なし。四つ目だけが、空白の色で表示されている。
「四欄目が空です」
「本人が申告していないからです」
「……知らせますか」
「知らせません」
エリシアは言った。
「知らせれば、あなたが消そうとしたことも一緒に届きます」
レナは、しばらくその画面を見ていた。消そうとした相手の顔を、彼女は一度も見たことがない。
「空のままで、いいんですね」
「よくありません」
エリシアは答えた。
「ですが、空だと分かるようにはなりました」
会議室の外を、港の風が通り抜けていく。制度は揺れた。内部からも。だが、壊れなかった。壊れなかった理由の半分は、壊そうとした人間が下手だったからだ。それも、記録には残らない。
『入る』と言えるようになるまで、レナは一度、壊す側に回る必要がありました。作者はそれを罰の話ではなく、様式の話として書いたつもりです。次回、アーデル・マルクスが再び壇上に立ちます。持ち出すのは批判ではなく、停止中の作業ログの、実装断念の欄です。




