第9話 条件付きの誠意
ラグネスの執務室に、再び王国の使者が訪れたのは、夕刻だった。
前回とは違う。今回は非公式ではない。王家の紋章が刻まれた封蝋、正式な任命文書、そして――過剰なほど丁寧な言葉遣い。
「エリシア・フォン・ルーヴェル殿」
使者は深く一礼した。その姿勢は、明らかに“対等”を意識している。
その斜め後ろに、書類箱を抱えた女が立っていた。
マリアンヌ・フェルゼン。あの晩、大広間で控えを求めてきた書記官だ。目が合うと、彼女は浅く頭を下げ、それきり視線を落とした。
「王国は、貴殿のこれまでの功績を再評価し――」
エリシアは、最後まで聞かなかった。無礼ではない。ただ、要点は分かっている。
「要件を、簡潔に」
使者は一瞬、言葉に詰まり、それから続きを口にした。
「王国財務顧問への再任です。職位は従来より引き上げ、独立した裁量権を付与します」
机の上に、書面が置かれる。条件は、確かに破格だった。
だが、エリシアの視線は、そこから動かなかった。
「条件が、もう一つありますね」
使者の喉が鳴る。ここまでは、たぶん台本があった。ここから先は無い。
「……王宮常駐、です」
その瞬間、室内の空気が静止した。窓の下では、荷を積み終えた船が舫いを解いている。
ヴァルド・グレインが、わずかに眉を動かす。腕を組んだまま、椅子から身を起こさない。
「随分と、都合がいいな」
使者は慌てて続けた。
「誤解なきよう! これは拘束ではなく――王国として、責任の所在を明確にするための措置で――」
「責任」
エリシアは、初めて視線を上げた。
「その言葉を、どの立場で使っていますか」
使者は言葉を失う。責任、という語を自分で持ち出したことに、いま気づいた顔だった。
「王国が混乱した責任を、“戻ってきた私”に背負わせるためですか?」
「そ、そんなつもりは――」
「では、私が不在の間に行われた判断について、誰が責任を負うのですか」
沈黙が落ちる。答えはない。最初から用意されていない問いだった。問われるとも思っていなかったのだろう。
エリシアは、ゆっくりと立ち上がった。声は低く、だがはっきりしている。
「王国は、まだ同じことを繰り返そうとしています」
「同じ……?」
「ええ。“人に依存する仕組み”です」
彼女は書面を指で軽く叩いた。
「私が戻れば解決する。私がいれば回る。――それでは、何も変わりません」
使者は、必死に言葉を探した。
「ですが……王国には、貴殿が必要なのです」
「必要なのは、“私”ではありません」
エリシアは、静かに言った。
「理解し、判断できる“制度”です」
ヴァルドが、わずかに笑った。使者は、完全に押し黙っている。書面の角を、指で二度そろえ直した。
「返答は?」
そう問われ、エリシアは少し考えた。そして、首を横に振る。
「今は、お受けできません」
きっぱりとした拒絶。言い方はやわらかいが、余地は残していない。
だが、続けてこう付け加えた。
「ただし」
使者が顔を上げる。ただし、という一語に、この使者は救われた。
「制度設計の助言なら、可能です。現地に常駐せず、責任も負わない形で」
「それでは……」
「それが、私の条件です」
王国が最も欲しいもの――“即効性のある解決”を、与えない。
代わりに、時間のかかる道を示す。
使者は、深く頭を下げた。持ち帰るという返事を、彼はたぶん用意していなかった。
「……持ち帰ります」
彼が去った後、室内には静寂が戻った。
「優しいな」
ヴァルドが言う。
「え?」
「完全に切り捨てることもできただろう」
エリシアは、少しだけ考えた。
「切り捨てるのは、簡単です。でも……それは、私の仕事ではありません」
数字は、人を試す。だが、人を罰するためのものではない。罰に使い始めたら、次に数える人がいなくなる。
使者が退出したあと、マリアンヌだけが残った。
書類箱を胸の前で抱えたまま、しばらく何も言わない。
「……お伝えすることが、一つあります」
声は小さかった。書類箱を抱えた腕に、力が入っている。
「命じられてはおりません。私が、勝手に持ってまいりました」
差し出されたのは、写しが一枚だった。
『北方輸送・発注遅延 残十五日』
その下に、日付と数字が縦に並んでいる。十八、十七、十六、十五。筆跡は同じで、墨の濃さだけが日ごとに違った。同じ刻限に書いた列ではない、ということだ。
毎日、誰かが書き足している。
「……あなたが、数えているのですね」
「はい」
「誰の指示で」
「誰の指示でもありません」
顔を上げたマリアンヌの目は、あの晩とは違っていた。
「エリシア様。北方は、間に合いますか」
率直な問いだった。前置きも、詫びも無い。
エリシアは、写しを机の上に置いた。
「私が戻れば、間に合うかもしれません」
「では――」
「ですが、来年も同じ書簡が届きます」
マリアンヌの息が、止まった。来年、という言葉が出るとは思っていなかったらしい。
「今年は、私が間に合わせる。来年は、誰が間に合わせるのですか」
答えは返らなかった。答えが無いことは、この半月で、彼女自身がいちばんよく知っている。
「……分かりました」
マリアンヌは、写しを持ち帰らなかった。
それは、置いていくという意思表示だった。
扉が閉まる。
残るのは――彼女自身の選択だけ。
置いていかれた写しは、命令でも懇願でもありません。数えていた人間が、数える先を変えただけです。第10話で第1章が閉じます。夜のラグネスでヴァルドが『後悔は』と聞き、朝の市場でミナが『帰ってくる?』と聞きます。出発の前夜に届く報告書の最後の頁には、名前のない数字が一つあります。




