第8話 象徴が空になる
北方からの書簡が財務局に届いたのは、その日の朝だった。
マリアンヌ・フェルゼンが受け取り、封を切り、三行読んで手を止めた。封は薄く、蝋の色も安い。急ぎの便に使う様式だった。
『雪解け前の輸送が、まだ発注されておりません。守備隊の備蓄は、あと十八日分です』
催促の文面ではなかった。責める言葉もない。ただ、日数だけが書いてあった。責めない書き方をする相手のほうが、あとで効く。
北方辺境防衛費の第二案。提出期限は、婚約破棄の三日後だった。今日で、半月と二日が過ぎている。
「……ラウル様」
財務官長は、別の書類の山から顔も上げずに応じた。
「後にしてくれ。同盟への回答が先だ」
「北方の備蓄が、十八日です」
ペンの音が、止まった。止まってから、動き出すまでに間があった。
「輸送の発注が、まだ出ていません。第二案が確定していないので、額が決められないと」
「額なら、一次案で仮に出せばいい」
「一次案の輸送費は、二重計上のままです」
そこで、会話が切れた。切れたところに、誰も別の話を入れなかった。
二重計上を解いていたのは、あの整合表だ。差額の根拠も、迂回路の前提も、全部そこにあった。この部屋の誰も、その中身を読んだことがない。読まなくても、毎年きちんと数字が合っていた。
「……あの表は」
マリアンヌは、言ってしまってから、自分の声だと気づいた。
「あの整合表は、結局どうなったのですか。誰か、探しに行ったのですか」
誰も答えなかった。書類をめくる音だけが、いくつか続いた。誰かの椅子が、一度だけ鳴った。
この半月、この部屋では毎日、婚約破棄の話が出た。宮廷の噂も、次の妃候補の話も出た。北方の話は、一度も出なかった。
昼過ぎ、宰相ヘルムートが財務局に降りてきた。
珍しいことだった。宰相は普段、数字のある部屋に足を運ばない。運ばないことを、この局の誰も不思議に思っていなかった。
「北方の書簡を」
マリアンヌが差し出すと、彼は立ったまま読み、そのまま黙っていた。
「殿下には」
「私から話す」
短く言って、宰相は書簡を懐に入れた。写しを取らせなかった。
その足で、第一王子の執務室へ向かったのだと、後で聞いた。
夕刻。マリアンヌは、書類を届けに執務室の前まで行き、扉が開いていることに気づいて足を止めた。
中から、声が聞こえた。
「シュタインベルク商業同盟から、正式な通達が来ました」
宰相の声だ。
「当面、王国との新規取引は凍結。ただし――」
一拍の間。
「“特定の個人”との技術的・制度的協力については、別途検討する、とのことです」
「……個人、だと?」
「エリシア・フォン・ルーヴェルです」
沈黙があった。
「なぜだ」
王子の声は、思っていたより低かった。
「なぜ、彼女なんだ。彼女は、ただの補佐だったはずだ」
「殿下は、“象徴”を見ておられました」
宰相の声には、責める調子がなかった。それがかえって重かった。責めるつもりなら、半月前に言えたはずだ。
「彼女は、“仕組み”を見ていた」
しばらく、何も聞こえなかった。
マリアンヌは、その場を離れるべきだと思いながら、動けなかった。
「民も商人も、今は見ています」
宰相は続ける。
「希望ではなく、“安定”を。言葉ではなく、“結果”を」
やがて、椅子の軋む音がした。
「……呼び戻せば、戻ってくると思うか」
かすれた声だった。呼び戻せ、と半月前に言ったときの声とは、別の人の声のようだった。
宰相は、すぐには答えなかった。
「殿下。“必要だから”では、人は戻りません」
「……」
「彼女は、もう王宮を“職場”として選ばないでしょう」
それきり、声は途切れた。返す言葉が無いのではなく、返してはいけないと分かっている沈黙だった。
開いた扉の隙間から、王子の背中が見えた。広い部屋だった。窓から差し込む光も、歴代王の肖像画も、机も椅子も、何ひとつ不足はない。ただ、そこにあるもののどれ一つとして、今は何も動かしていなかった。
マリアンヌは、書類を持ったまま廊下を戻った。
殿下は、理解したのだと思う。半月かかったが、届いたのだと。届いたところで、備蓄の日数は一日も増えない。
だが、廊下を歩きながら、彼女が考えていたのは別のことだった。
――理解したのは、あの部屋の二人だけだ。
財務局に戻ると、机の上は朝と同じだった。同盟への回答文の草稿が三枚。北方の書簡は、宰相が持っていったきり、写しも回ってきていない。北方の備蓄は、今日で十七日分になったはずだ。
マリアンヌは、新しい紙を一枚取り、いちばん上に書いた。
『北方輸送・発注遅延 残十七日』
誰に提出するあてもない。それでも、日数だけは、誰かが数えていなければならない。数えていれば、いつか誰かが読む日が来る。
同じ夜、ラグネスで、エリシア・フォン・ルーヴェルは静かに帳簿を閉じた。
「……王子は、ようやく気づいたでしょうね」
ヴァルドが、そう言う。
「ええ。でも、それで十分です」
エリシアは、淡く微笑んだ。
「理解と、修正は、別の作業ですから」
理解しても、戻れない。それが、選択の重さだった。重さは、選んだ側にも同じだけ乗る。
彼女はまだ知らない。王宮で今、日数を数え始めた人間が一人いることを。
王子の執務室には何ひとつ不足がなく、何ひとつ動いていない。書きたかったのはその部屋です。次回、王国の正式な使者がラグネスへ。条件は破格、ただし王宮常駐。斜め後ろに立つ書記官が命じられずに持ってきた一枚が、この作の要です。北方辺境防衛費の第二案はいまだ誰も整合していませんので、ブックマークと評価だけは作者が責任をもって整合します。




