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婚約破棄されたので、王宮を出て制度を作り直します ~王国の財政を握っていたのは私でした~  作者: 月守いとは


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第10話 彼女の居場所

 夜更けのラグネスは、昼とは別の顔を持っていた。


 港の灯りが水面に揺れ、荷下ろしを終えた船が静かに眠りにつく。昼間の喧騒が嘘のように、街は落ち着いた呼吸を取り戻していた。桟橋の端で、番の者が一人、湯を沸かしている。


 エリシア・フォン・ルーヴェルは、執務室の窓辺に立ち、その光景を見下ろしていた。


 王国からの使者が去ってから、半日。帳簿は一段落し、急ぎの判断もない。


 ――考える時間が、ようやく訪れた。


「ここに来て、まだ十日も経っていないのですね」


 背後から、ヴァルド・グレインの声がした。彼は手に二つの杯を持ち、片方を差し出す。扉を叩かずに入ってきたのは、この街に来てから初めてだった。


「休めと言われても、君は聞かないだろう」


「ええ。数字は、待ってくれませんから」


 杯を受け取り、エリシアは小さく口をつけた。強くはない酒。だが、胸の奥が少しだけ温かくなる。


「王国の件……後悔は?」


 ヴァルドの問いは、探るようなものではなかった。ただ、確認だ。確認を先に済ませておく人だった。


 エリシアは、しばらく沈黙した。夜の風が、外套の裾を揺らす。風は港から吹き上がってきて、少し生臭い。


「後悔、ですか」


 そう呟いてから、静かに首を振った。


「いいえ。私は、ようやく“自分の立つ場所”を知っただけです」


 王宮では、常に誰かの隣に立っていた。王子の婚約者として、補佐として、影として。


「王宮にいた頃、私は自分の仕事を誇れませんでした」


 数字を整えること、混乱を防ぐこと。それが誰のためなのか、語られることはなかった。語られないものは、そのうち自分でも分からなくなる。


「でも、ここでは違う」


 エリシアは、港を指さした。


「あの灯りの一つ一つが、“仕事の結果”として、目に見える」


 穀物が届く。値が下がる。人が笑う。


 それは、王宮では決して味わえなかった感覚だった。王宮の窓からは、何が良くなったのかが一度も見えなかった。


「シュタインベルク商業同盟の話もある」


 ヴァルドは言った。


「受ければ、君はもっと自由になれる」


「自由、ですか」


 エリシアは微笑んだ。


「ええ。魅力的なお話です」


 だが、即答はしない。それもまた、選択だ。即答できる相手には、即答しないほうがいい。


「私は、どこか一つの国に属するつもりはありません」


 その言葉は、彼女自身を驚かせるほど、自然に口をついて出た。


「必要とされる場所で、必要な分だけ、数字を使う」


 ヴァルドは、しばらく彼女を見つめてから、静かに笑った。杯の中身は、二人ともほとんど減っていない。


「君はもう、“捨てられた令嬢”じゃないな」


「最初から、そうではありませんでした」


 エリシアは、淡々と答える。


「ただ……そう扱われることに、慣れすぎていただけです」


 その頃の王宮では、第一王子レオンハルトが独り執務室に残されていた。


 机の上には、山積みの報告書。どれも、即効性のある解決策を示してはいない。示せる者が、この王宮からいなくなっている。


「……彼女は、戻らない」


 そう口にした瞬間、胸の奥に奇妙な静けさが広がった。


 怒りでも、悲しみでもない。ただ、理解に近い感情だった。理解は、いつも遅れて届く。


 ――彼女は、王宮より先に進んでしまった。


 それを引き戻すことはできない。ならば、自分はどうするのか。


 答えは、まだ見えない。


 同じ夜、ラグネスの執務室にも、灯りが残っていた。


 エリシアは机に戻り、新しい帳簿を取り出す。表紙には、まだ何も書かれていない。


 彼女は、しばらくペンを手にしたまま考え、そして、ゆっくりと文字を記した。表紙に書く言葉を決めるのに、半刻かかっている。


『制度設計記録』


 国名は書かない。所属も、肩書きも。


 ただ、仕事の内容だけを残す。


 それが、今の彼女の答えだった。


 窓の外で、港の鐘が鳴る。新しい一日の始まりを告げる音だった。王都の鐘とは、鳴らす回数が違う。


 エリシア・フォン・ルーヴェルは、椅子に腰を下ろし、背筋を伸ばした。


 彼女はもう、誰かの隣に立つために生きない。


 ――社会の足元を、支えるために。


 翌朝、市場に寄った。


 ミナは、いつもの場所にいた。籠は、やはり軽い。


「三か月、留守にします」


 少女は少し考えてから聞いた。


「どこ行くの」


「ハルフェンという港です」


「ふうん」


 それだけだった。行き先の名前に、この子は何の意味も見出さない。当然だ。この子にとって大事なのは、籠の重さだけだ。


「帰ってくる?」


 エリシアは、答えるのに一拍かかった。


「……ええ」


 それが、この街で交わした最初の約束になった。


 出発の前夜、ヴァルドが一枚の報告書を置いていった。


 ハルフェン港の運営指標。事故率、回転率、労務単価――どれも、王国のどの港より整っている。整っている、という一語で片づけられる程度には、揃いすぎていた。


 最後の頁に、注記が一行だけあった。


『前期、契約更新対象外:百十四名』


 数字は、それだけだ。名前は、書かれていない。

婚約破棄で始まった第1章が、終わりに残したのは、この街で交わした最初の約束と、注記の一行でした。百十四という数字に、次の章で名前がつきます。

次回から第2章、港湾都市ハルフェン。すべてが正しい速度で動く完璧な港と、それを設計した男アルノー・リヒターが登場します。処理速度が平均より三%遅い作業員が持ち場を離れる場面から、彼女の検証は始まります。

ここまでお読みいただき、ありがとうございます。ブックマークと評価は、彼女が国名を書かなかった新しい帳簿の、まだ空いている欄に記帳させていただきます。

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