第83話 守るものの違い
王宮の執務室は、夜でも灯りが落ちていなかった。
机の上には、三十日の工程表が広げられている。表示形式の改修、文脈保護の条項、再評価の申請制度、拡散の抑止。四つのうち、日数が入っているのは最初の一つだけだった。
レオンハルトは、その一覧を黙って見つめていた。自分が反対した案の工程表を、誰よりも先に取り寄せている。
扉が叩かれる。
「入れ」
エリシアが入室する。向かい合うのは久しぶりだった。議場での対立以来、二人きりで話していない。扉から机までの距離を、彼女は普段より少しだけゆっくり歩いた。
「一時停止は、あなたの勝ちだ」
王子が先に言う。
「勝敗ではありません」
「政治は勝敗だ」
淡い苦笑があった。政治は勝敗だ、と言いながら、この人は勝った顔をしていない。
「だが、今回は違うか」
沈黙が挟まる。窓の下で、衛兵の交代の足音が通り過ぎた。
「私は維持を選んだ。制度が揺らぐことを恐れた」
「私は停止を選びました。人が壊れることを恐れました」
視線が交差する。恐れた、という語を、二人が続けて使った。
「どちらも間違いではない」
「ええ。守る対象が違うだけです」
王子は机に手を置いた。工程表の四つ目のところに、指が乗っている。
「私は国家を守る。あなたは制度を守る。そして今は、人を守ろうとしている」
エリシアは静かに頷いた。
「制度は人のためにあります。ですが、人は制度を通してしか守れないこともあります」
言葉が少し柔らいだ。柔らいだのは、たぶん論点が片づいたからではない。
「あなたは変わった」
レオンハルトが言う。
「以前は、もっと揺らがなかった」
「揺らいでいます」
正直な答えだった。揺らいでいます、と認めるのに、以前なら三日かかった。
「正しさだけでは足りないと知りました」
王子は小さく息を吐く。証明してほしい、という言い方は、命令ではなかった。
「それでも、私は維持を選ぶ。三十日後、再開する。そのとき、弱くなっていないと証明してほしい」
エリシアはまっすぐに応じた。形が変わるだけ、という答えは、用意してきたものではない。
「弱くはなりません。形が変わるだけです」
静かな間があった。灯りの油が減って、炎の先が少し細くなっている。
「収量表の付箋を、読みました」
彼女は言った。
「誰が、この村の名を消したのか」
「書いたのは私だ」
王子は認めた。認めるまでに、間を置かなかった。
「調べさせた。答えは出ない。誰も消していない。転出届が出て、翌年の表を作るときに、村の行を作らなかった。それだけだ」
「行を作らなかった人は」
「書記官だ。名前は残っている。悪意はない。前年に人がいない村の行を作れと、誰も命じていない」
レオンハルトは言った。
「命じなかったのが、私の椅子だ」
沈黙が落ちる。命じなかったのが私の椅子だ、という一文を、彼は誰にも相談せずに用意していた。
「あなたを追放したとき」
王子が不意に言う。
「私は、管理できないものを恐れた」
エリシアは目を細める。管理できないものを恐れた、という言葉は、二年前には一度も出てこなかった。
「今は」
「今は、あなたが管理できないものを抱え込んでいる」
わずかな笑みがあった。抱え込んでいる、という指摘は、たぶん当たっている。
「だから私は、あなたの背後を守る。それが、私の役割だ」
エリシアは一瞬、言葉を失った。背後を守る、という言い方に、庇うという語が入っていない。
衝突は終わっていない。だが、対立ではなく分担になった。分担は、対立より長く続く。
窓の外、港の灯りが揺れている。三十日は短い。だが、壊すよりは長い。
退室のとき、王子が言い足した。
「新しい様式に、行を作らなかった記録を残す欄を入れておけ」
「入れます」
「二十年後に、誰かが読む」
「読まないかもしれません」
「読まなくていい」
レオンハルトは言った。
「作らなかった行が、あったことになる」
敵対から分担へ。この二人の距離の縮め方は、抱擁ではなく欄の追加で表されます。そのあと、停止のまま日が過ぎ、改修の内側で最初の副作用が見つかります。外から届く見出しは『停止中も修正作業は不透明』。




