第81話 可決寸前
議場は、これまでにない緊張に包まれていた。
凍結案、一時停止案、維持案。三案の同時審議は、議事の記録に残る限り前例がない。傍聴席は満席で、広場では市民が中継を見守っている。
最初に発言したのは、凍結派の筆頭議員だった。
「内部の改竄未遂が起きた。市民が傷ついている。制度は一度、止めるべきだ」
拍手が起こる。傍聴席のほうが、議員席より先に鳴った。
次に、維持派。
「未遂は検知された。公表もされた。透明性は機能している」
こちらにも拍手。数は、さきほどより少し少ない。
そして、エリシアが呼ばれた。議場の視線が一斉に向く。
「私は、限定的な一時停止を提案します」
ざわめきが走る。設計者が停止を言うとは、議場の半分が思っていなかった。
「凍結は理念の放棄です。維持は設計の過信です」
議場が静まり返る。理念の放棄と設計の過信を、同じ息で並べられる者はこの議場に一人しかいない。
「公開は正しい。ですが、正しさだけでは守れません。失敗履歴は必要です。ですが、文脈のない拡散は防ぐべきです。三十日で設計を修正します。止めるのではなく、整えます」
視線が議員たちを巡る。
「ただし、先に申し上げます」
彼女は続けた。
「三十日で、切り取りは防げません」
議場がざわついた。防げません、という一語が、議事録に残る形で発せられた。
「防げるのは、失敗履歴を単独で表示させないところまでです。画面がある限り、人は切り取れます。三十日でできるのは、切り取られたときに、こちらが無関心でいないと決めることだけです」
傍聴席から、小さな声が上がった。責める声ではない。落胆の声だった。
「それでは、何も変わらないではないか」
「変わりません」
エリシアは答えた。
「ですが、変わらないと知って続けるのと、変わると思って続けるのは、違います」
王子が立ち上がる。
「私は維持を主張する」
はっきりと。
「揺らぎは制度の一部だ。ここで止めれば、公開は弱い制度だと示すことになる」
議場が再びざわめく。維持案は、これで筋が通ってしまう。
票読みが始まった。凍結派が優勢。僅差だ。可決の線まで、あと二票。
ヴァルドの顔が強張る。あと二票という数字は、動かせる範囲に見えて、いちばん動かない。アルノーが小声で呟いた。
「まずい」
最後の発言者として、アーデル・マルクスが証言台に立った。議場が静まる。
「私は凍結を支持します」
空気が凍る。支持する、と言われた側の顔が、一斉に強張った。
「制度は一度、立ち止まるべきだ」
凍結派が勢いづく。だが、勢いは一文で止まった。
「だが、完全凍結は危険だ」
その一言で、空気が揺れた。
「公開は腐敗を防いできた。それも事実だ」
彼は続ける。
「先ほど、設計者は三十日で切り取りは防げないと言いました。私は二十年、記事を書いてきました。防げると言った人間は、全員、嘘つきでした」
議場が静まる。二十年、という数字を、この男は自分の側にも当てている。
「防げないと壇上で言う人間を、私は初めて見た。私は一時停止案を支持する」
ざわめきが走る。
「止めるのではなく、直す。傷を無視せず、理念も捨てない」
議員たちの視線が動いた。票が、再計算される。動いた議員の名は、あとで記録に残る。
凍結案は否決。維持案も届かない。一時停止案が、僅差で可決された。
議場に深い息が流れる。完全な勝利ではない。だが、崩壊もしていない。可決の鐘は、いつもと同じ回数だけ鳴った。
エリシアは静かに目を閉じた。三十日。その間に、制度を進化させなければならない。
退場のとき、通路ですれ違ったアーデルが、足を止めずに言った。
「防げないと言ったのは、賭けですか」
「いいえ」
エリシアは答えた。
「事実です」
「では、賭けたのは私のほうだ」
勝ったのは、防げないと言った側でした。政治で正直が票になるのは珍しい。次回、護衛も記者もいない港の応接室で、エリシアとアーデルが向かい合います。話題は三十日の工程ではなく、奥様の記事に付いた訂正が、紙面のどこに載ったか。一時停止案は僅差でしたので、足りなかった分の票はブックマークと評価で補っていただけると助かります。




