第77話 止めるという選択
会合室の扉が閉まる。中にいるのは、エリシアとレオンハルト、そして数名の中枢だけだ。
「凍結案は明日、採決にかけられる」
王子は前置きをせずに言った。扉が閉まる音のほうが、彼の第一声より大きかった。
「世論は揺れている。五分だ」
エリシアは静かに頷く。五分、という数字は、こちらの卓にも同じ形で載っている。
「広場の声は正当です」
「だから止めるのか」
即座に返ってきた問いは鋭かった。
沈黙が落ちる。だから止めるのか、という問い方には、答えを一つに絞らせる力がある。
「公開は人を傷つけています。文脈のない拡散が、再起を妨げている」
「それは公開の責任か」
「設計の責任です」
レオンハルトの視線が揺れる。設計の責任です、という言い方を、彼はこの二年で何度も聞いてきた。聞くたびに、こちらの椅子が軽くなる。
「止めれば、何が戻るか分かっているな」
「隠蔽。恣意的な判断。裏取引」
エリシアは一つずつ口にした。並べ終えるまでに、誰も口を挟まなかった。
「分かっています」
「ならばなぜ迷う」
その問いに、わずかな感情が滲んだ。追放の日以来、初めての真正面からの衝突だった。あの日は、片方だけが決めて、片方は聞かされる側にいた。
「制度は守るためにあります」
エリシアは低く言う。
「ですが、守られる側が傷ついているなら、止めることも守ることです」
レオンハルトは机に手を置いた。手袋は外している。外してから話し始めるのが、いつからか癖になっていた。
「止めるのは簡単だ。再開は難しい」
会合室の空気が張り詰める。中枢の数名は、どちらの側にも寄らずに黙っている。
「私は公開を守ると決めた。あなたもそうだったはずだ」
エリシアは目を伏せた。あの日、港で始めた設計。腐敗を止めるための装置。守ると決めた、という言い方を先にしたのは、確かにこちらだった。
「私は公開を信じていません」
顔を上げる。
「選んでいるだけです」
「だが今、その選択が誰かを傷つけている」
「制度は常に誰かを傷つけます」
レオンハルトは静かに言う。
「税も、法も、罰も。完璧な制度はない。だが、止めれば、あなたが守ってきたものが崩れる」
沈黙が落ちる。窓の外から、遠く抗議の声が届く。言葉までは聞き取れない。
「一つ、伺います」
エリシアは言った。
「昨日お渡しした収量表は、読まれましたか」
「読んだ」
「四年目に、村が三つ消えています」
「消えた理由の欄がない、と書いてあったな」
「はい」
王子はしばらく黙っていた。読んだ、という返事が短かったぶん、そのあとの間が長い。
「あれを見せて、私に止めろと言いたいのか」
「いいえ」
エリシアは首を振った。
「あの表は、公開が正しく機能した記録です。不正はゼロになりました。私は、あれを止めるべきだったとは思っていません」
「では、なぜ見せた」
「あの表を作った人間は、四年目に何も感じなかったはずだからです」
彼女は言った。
「三年で不正がゼロになった。数字は完璧です。四年目の空白に気づく理由が、どこにもない。私は今、あの位置にいます」
レオンハルトは目を細めた。あの位置にいます、という言い方を、彼はそのまま受け取った。
「気づいているなら、あの表とは違う」
「気づいたところで、止めるか続けるかしか選べません」
エリシアは小さく息を吐く。ここから先は、提案の形にしなければ議題にならない。
「一時停止を提案します」
室内が凍る。停止という語を、この部屋で最初に言うのが彼女だとは、誰も思っていなかった。
「全面凍結ではありません。限定的な停止です。失敗履歴の新規公開を一時保留し、改善履歴を優先して表示します」
ヴァルドが息を呑んだ。案そのものは、昨夜のうちに彼も一度読んでいる。読んだときは、出さない案だと思っていた。
王子は目を細める。
「それは、理念の後退だ」
「理念の修正です」
声は震えていない。震えていないことを、自分で確かめながら喋っていた。
「私は設計者です。壊れる前に、止めます」
長い沈黙のあと、レオンハルトが言った。
「……私は反対だ」
はっきりと。
「止めれば、公開は弱い制度だと証明する」
「止めなければ、社会が割れます」
初めて、二人の視線が正面からぶつかった。婚約破棄のときとは違う。今は、対等だ。
「明日の採決で決まる」
王子は言った。
「私は維持を主張する」
「私は停止を主張します」
言葉は静かだった。だが、溝は深い。溝の底に、二人とも同じものを置いている。置き方だけが違う。
扉が開き、夜風が流れ込む。
王子は出ていく前に、上着の内側から収量表を出して机に戻した。付箋が一枚、四年目の頁に挟まっている。付箋には何も書いていなかった。
対等になった二人が、最初にしたのが決裂でした。採決当日の朝、記録板の改変できないはずの欄に、一瞬だけ修正の痕が浮かびます。認証を通ってきたのは、外の誰かではありません。




