第58話 最適化の限界
採決まで、二日。
市場は一見、安定していた。予測淘汰モデルを採用した都市では、短期指標が改善を維持している。投資回収率は上昇し、事故率は低下した。
だが、朝の便で学術院から報告が届いた。差出人はルシアン・ヴァイスだが、本人の分析ではないと但し書きがある。但し書きのほうが、本文より丁寧な字だった。
「うちの雑嚢に、また宛名のないものが入っていました」
書簡にはそう書かれていた。
『中身は統計です。作りが前と同じでした』
公開記録板に、その統計が転記された。転記の作業そのものは、四半刻で終わる。四つしか欄が無いからだ。
新規商団の登録数、前年比マイナス四十八パーセント。小規模契約の成立率、減少傾向。資金集中度、上昇。
「参入障壁が上がっています」
ヴァルドが言う。
「失敗確率が高いと予測される段階で、資金が集まりません」
挑戦が、始まる前に止まっている。止まったものは、失敗の欄にも載らない。載らないものを、公開は数えられない。
エリシアは統計の末尾を見た。頁の隅に、細かい通し番号が振ってある。三枚に一枚、番号が飛んでいた。
彼女はその飛びを数えなかった。数えれば、また同じ人だと分かってしまう。分かっても、できることは何もない。
カイは冷静に資料を見ていた。四十八という数字のところで、指を一度止めている。
「短期的現象です」
「理由は」
エリシアが問う。
「淘汰が進めば、優良団体が市場を安定させます」
理論は一貫している。一貫した理論は、途中の年に何が起きるかを言わなくてよい。
だが、その夜、予測外の事態が起きた。
大規模輸送契約で遅延が発生した。原因は、季節外れの高潮だった。潮位の記録は残っているが、その日の風向きまでは誰も控えていない。従来なら、周辺の小規模団体が補完する。
「補完団体が存在しません」
制限と縮小の波で、中間層が薄くなっていた。
結果、遅延は拡大した。大規模団体も影響を受ける。市場が揺れた。揺れは半日で収まったが、収まるまでに港の荷は一日ぶん後ろへずれた。
「……柔軟性の低下」
エリシアが静かに言う。
効率は無駄を削る。だが、無駄は時に緩衝材になる。緩衝材は、使われなかった年には無駄にしか見えない。
カイは数値を確認した。
「確率の低い事象です」
「ですが、発生しました」
エリシアは視線を逸らさない。
「モデルは、平均を最適化します」
「ええ」
「ですが、極端な事象に弱い」
沈黙が落ちた。セオドアも初めて眉をひそめている。損失は限定的だが、揺らぎが見えた。見えた揺らぎは、数字より早く人を動かす。
「淘汰は強い」
エリシアは言う。
「ですが、循環が減れば、衝撃に弱くなります」
カイはしばらく黙っていた。
「動的評価指数は、この問題を解決すると」
「完全ではありません」
率直な答えだった。完全ではありません、と先に言うのは、この二日で三度目になる。
「ですが、中間層を残します」
挑戦の途中にある団体が存在すれば、補完が働く。効率は下がる。だが、耐久性は上がる。
「一つ、確認しておきたい」
カイが言った。
「あなたの指数を入れても、今回の高潮は防げません」
「防げません」
「では、何が変わる」
「高潮の翌日に、荷を回せる相手がいます」
エリシアは答えた。
「その相手は、あなたの指数では、前の月に消えています」
カイは資料を閉じた。閉じる速度が、いつもより少しだけ遅かった。閉じてから、卓の上で角を揃え直している。揃える必要のない揃え方だった。
会合室の空気が変わっていた。効率支持派の一部が、沈黙に入っている。
数字は強い。だが、その日は現実のほうも数字で示された。
採決まで、二日。
エリシアは、宛名のない統計をもう一度手に取った。作りは前と同じだった。欄が四つしかない。作った人間は、埋めきれないほうが悪いと言われないように欄を減らしている。
彼女は、その様式のまま記録板に載せた。出典の欄は、空白のままにした。
四欄きりの様式を、その形で載せる。出典は空白のまま。誰が作っているのかを、作者も本文もまだ言いません。言えば探すことになるからです。採決前夜、会議室に残るのは二人だけ。カイが自分に向けて言い直す問いがあります。「お父様の帳簿を、なぜ焼いたのですか」。




