第59話 循環か淘汰か
採決前夜。公開枠組みの会議室には、まだ灯りが残っていた。
大半の参加者は帰った。椅子はまだ引き出されたままで、卓の上には署名前の議事の写しが人数ぶん残っている。中央の卓に、二人だけが向かい合っていた。
「あなたの指数は、よく出来ている」
カイが静かに言った。
「効率を否定していない」
「否定する必要はありません」
エリシアは答える。
「効率は強い。ですが、足りない」
短い沈黙。灯りの芯が一度爆ぜて、二人の影が壁で短く動いた。
「あなたは、淘汰を恐れている」
「いいえ」
「では、何を守ろうとしている」
エリシアはゆっくりと答えた。答えを探したのではなく、この言葉で通じるかどうかを測っていた。
「循環です」
カイの目がわずかに細まる。円、という言葉に反応したのが分かる細まり方だった。
「淘汰は直線です。循環は円です」
「直線は速い」
「円は続きます」
静かな応酬だった。互いに相手の言葉を否定していない。否定していないのに、噛み合ってもいない。
「私の父は、崩壊した」
カイがぽつりと言う。回廊で話したときより、声が低い。
「淘汰が遅れたせいだ」
「遅れたのではありません」
エリシアは言った。
「隠されたのです」
沈黙が落ちる。隠された、という言葉を、彼はたぶん一度も自分では使ったことがない。
「公開があれば、崩壊は防げたかもしれない」
「ええ」
「だが、公開があっても、効率がなければ破綻する」
「ええ」
二人は、初めて同時に肯定した。三日かけて削り合った末に残ったのは、共有できる前提が二つあるという事実だけだった。
「だから私は、最適化を選ぶ」
「だから私は、時間を組み込みます」
カイが問いを投げる。
「失敗確率の高い団体を、いつまで待つのですか」
「待ちません」
即答だった。待つ、という言葉が誤解を生むことは、意見書を書いた三日で分かっていた。
「改善速度が鈍れば、指数は下がります。淘汰は起きます」
「では違いは何だ」
エリシアははっきりと言った。
「猶予です」
制限を即断せず、改善評価を挟む。挟むのは日数であって、判断ではない。
「挑戦が消えると、市場は縮みます」
「縮小は効率的だ」
「衝撃に弱くなります」
視線が交差する。どちらも身を乗り出していない。乗り出したほうが負ける種類の話だった。
「あなたは強さを求める」
「あなたは持続を求める」
カイは淡く笑った。
「強さなくして持続はない」
「持続なくして強さは残りません」
外では、港の灯りが揺れている。夜番の交代の鐘が、いつもの刻限より少し早く鳴った。
「一つ、伺ってもいいですか」
カイが言った。
「お父様の帳簿を、なぜ焼いたのですか」
エリシアが聞いたのではない。カイが、自分に向けて言い直したような聞き方だった。
「読める人間が、私しかいなかったからです」
彼は続ける。
「私が持っていれば、私はそれを一生読む。読み続ければ、いつか父を正しく裁ける気がした。裁いてどうなるものでもないのに」
エリシアは黙っていた。裁く、という言葉を彼が使ったのは、この夜が初めてだった。
「あなたは、あの帳簿を返すつもりですか」
卓の隅を、彼は目で示した。紐で括った古い帳簿が、今日もそこにある。
「本人は、もう見たくないと言いました」
「では、返せませんね」
「返せません」
エリシアは言った。
「ですが、持っている理由が変わりました。最初は、私が忘れないために持っていました。今は、指数の根拠の一件目です」
「それは、使っているということです」
「はい」
「本人に断らずに」
「断りに行きます」
彼女は言った。
「採決が終わったら」
カイはしばらく彼女を見ていた。それから立ち上がり、椅子を卓の下へきちんと戻した。
「私は敗北を恐れません」
「私も」
「重要なのは、制度が進化することだ」
エリシアは静かに頷いた。制度が進化する、という言い方の中に、自分が残るかどうかは入っていない。入れなくていい。
「ええ」
淘汰か、循環か。答えは明日出る。
会議室を出るとき、カイは灯りを消さなかった。次に来る人間が、暗い部屋に入らないようにするためだ、と彼は言わなかったが、エリシアはそう受け取った。
淘汰は直線、循環は円。標語にすると軽いので、二人には帳簿の話をさせました。焼いた人と、預かっている人が同じ卓で向き合う回です。最後に部屋を出るときの動作まで含めて。明日は採決。挙手のあと、エリシアはレイデルへ向かいます。「返さずに持っています」と、本人に言うために。




