第56話 時間という変数
採決まで、五日。
公開型枠組みの意見書提出期限が迫る中、エリシアは三日間、ほとんど席を立たなかった。
机の上には二つの山があった。カイの予測淘汰モデルと、連鎖遅延の記録。その間に、紐を解いた古い帳簿が挟まっている。三日のあいだに山の高さは変わらず、挟まった帳簿の位置だけが少しずつ手前へ寄っていた。
否定はしない。淘汰は必要だ。否定できるだけの材料が無いのではなく、否定してはいけないと分かっている。
「速度が速すぎる」
ヴァルドが小さく呟く。
「ええ」
エリシアは頷いた。速いこと自体は、この五年ずっと自分が求めてきたものでもある。
失敗確率が高い団体は、即座に制限対象となる。資本は一斉に引く。再建の猶予がない。判定から資金が引くまでの日数を数えてみると、三都市の平均で四日だった。四日は、返事を書くにも足りない。
「淘汰そのものではなく、圧縮が問題です」
失敗、制限、縮小、破綻。本来、段階があるはずだ。だが、指数が一つの判定を下すことで、時間が縮む。
「では、時間を戻すのですか」
「いいえ。時間を組み込みます」
白紙に書かれた見出しを、彼女は指で示した。
『動的評価指数』
「失敗履歴は残します。淘汰も否定しません。ですが、評価に改善速度を加えます」
「改善速度」
ヴァルドが資料を見る。書き込みの少ない頁だった。この数日で書き足した欄が、まだ半分も埋まっていない。
「是正措置から次の成果までの期間。再発率が下がる傾向。外部支援との連動」
静的な失敗履歴だけではなく、時間軸を含めた評価。失敗を消すのではなく、失敗のあとに何日あったかを、失敗と同じ欄の並びに置く。
「失敗があっても、改善が速ければ指数は回復します。制限は即時ではなく、段階的に」
「根拠は」
「二件です」
エリシアは古い帳簿を開いた。
「一つは、この帳簿の一度目の年。三か月、持ち直しています。もう一つは、リリア商団の是正措置の記録です」
「二件で足りますか」
「足りません」
彼女は即座に認めた。
「ですから、指数を採用したあとに集まる分で埋めます。今は、二件で提案します。二件だと書いて出します」
ヴァルドは、その言い方に少し驚いた顔をした。紙を持つ手が一度止まり、それから元の位置に戻る。
「普通は、もっとあるように書くものでは」
「もっとあるように書いたら、動的評価指数の一件目の失敗が私になります」
その夜、意見書が公開枠組みに提出された。刷り上がった束を数えるとき、エリシアは一部だけ余分に取り分けた。宛先は書かない。書けば、取り決めになる。ただ、港湾都市から王都へ回る便に、毎月そうやって一部が乗っている。誰の手に渡っているかは、確かめていない。
確かめないことにも、たぶん理由がある。
『効率条項に対する代替案:動的評価指数』
末尾に、根拠事例二件、と明記してある。閲覧数はすぐに伸びた。カイもその日のうちに目を通した。
翌朝、回廊で二人は向き合った。
「興味深い」
カイは率直に言う。
「効率を否定していない」
「否定しません」
「だが、遅らせる」
「猶予を与えます」
短い沈黙。回廊の石は朝のうちだけ冷たく、二人とも壁際を歩いていた。
「感情のためですか」
「構造のためです」
エリシアはまっすぐに答える。
「連鎖は、効率モデルの盲点です」
カイの目がわずかに動いた。
「モデルは修正できます」
「ええ。ですから、時間を含めたモデルに進化させればいい」
挑戦ではない。提案だった。挑戦の形にすれば、負けた側が引けなくなる。
「根拠が二件だと、末尾に書きましたね」
「書きました」
「あれで、賛成する者が減ります」
「減ります」
エリシアは頷いた。
「ですが、書かずに通した指数は、通ったあとで誰かが数え直します。数え直したときに、二件だったと分かるほうが、致命的です」
カイはしばらく彼女を見ていた。
「……あなたは、自分の指数が壊れる場所を先に書いている」
「はい」
「それは、設計ですか」
「癖です」
カイは、初めて声を出して笑った。笑い方も一定だった。
「採決まで、五日」
彼は言った。
「面白くなりました」
彼が去ったあと、エリシアは意見書の写しをもう一度読んだ。末尾の一行に、自分でも少し長すぎると思っていた但し書きがある。
消さなかった。
自分の指数が壊れる場所を先に書く。カイが声を出して笑ったのは、そこでした。「癖です」の一言のために、この回はあります。次回、採決まで三日。リリア商団の頁が更新され、彼女自身が壇上に立ちます。当事者が根拠を語るのは公平か、と問う人も出ます。ブックマークと評価は根拠事例には数えませんが、意見書の末尾になら書き足しておきます。




