第3話 数字を読む者
王都から二日。
エリシア・フォン・ルーヴェルが乗る馬車は、商業都市ラグネスの門をくぐった。高い城壁はないが、人の流れが途切れない。荷馬車、行商人、冒険者、職人――それぞれが自分の役割を理解し、無駄なく動いている街だった。
王都より、よほど機能的だ。エリシアは心の中で、そう評価する。
「お疲れでしょう」
向かいに座る男が、穏やかに声をかけた。ヴァルド・グレイン。商会連合の代表にして、ラグネスを事実上まとめる男。門をくぐるあいだ、彼は一度も外を見なかった。
三十前後。派手さはないが、視線が鋭い。無駄な言葉を使わない人間の目だ。
「いいえ。移動中に帳簿を確認できましたので」
エリシアがそう答えると、ヴァルドは小さく笑った。
「普通は“休ませろ”と言われるところだ。やはり噂通りですね」
「噂?」
「王宮の数字を、影から支えていた令嬢の話です」
エリシアは視線を上げなかった。噂は、事実より早く走る。そして、たいてい歪む。
「私はただ、求められた仕事をしていただけです」
「違う」
ヴァルドは即答した。違う、と言い切るまでに、間が無い。
「求められた仕事を“形にした”人間と、“設計した”人間は別だ。あなたは後者だろう」
その言葉に、エリシアの指が一瞬止まった。設計した、という語を、他人の口から聞いたのは初めてだった。
王宮では、誰もそう言わなかった。“補佐”“裏方”“気が利く”――その程度の評価しか、与えられなかった。
「こちらです」
馬車が止まり、二人は降りる。案内されたのは、商会連合の会議棟。簡素だが、整然としている。柱に飾りはなく、壁には航路の図が一枚だけ掛かっていた。
長机の上に、分厚い書類が積まれていた。
「ラグネスの財政資料です」
ヴァルドはそう言って、エリシアの前に一冊差し出した。
「ご意見をいただきたい」
試すような言い方ではなかった。本気で、判断を求めている声。試されるほうが、まだ楽だった。
エリシアは黙って資料を開く。視線が、数字をなぞる。
五分。十分。
部屋は静まり返っていた。頁をめくる音だけが、規則正しく鳴っている。
「……三点、問題があります」
エリシアが口を開いた。
「第一に、港湾使用料の設定。繁忙期と閑散期の差が考慮されていません」
「第二に、倉庫管理費。委託先が多すぎる。中間搾取が発生しています」
「第三に、労働者の賃金体系。短期雇用が多く、結果的にコストが増えている」
ヴァルドの口元が、僅かに緩んだ。三点、という数え方に反応した緩み方だった。
「……具体的な解決策は?」
「港湾使用料は季節変動制に。倉庫は三割削減、残りは直轄管理へ。賃金は――」
エリシアは、さらりと数字を並べる。感情はない。ただ事実と、最適解。誰も口を挟まなかった。
十分後。
ヴァルドは、深く息を吐いた。
「なるほど。王宮が手放すわけだ」
皮肉ではない。感嘆に近い。手放すわけだ、という言い方に、こちらを慰める意図は無い。
「……王宮では、こうした話は好まれませんでした」
「でしょうね」
ヴァルドは肩をすくめる。でしょうね、の一語で、王宮の二十年を片づけた。
「ここでは違う。結果がすべてだ」
その言葉は、エリシアの胸に静かに落ちた。王宮では聞けなかった、あまりにも単純で、あまりにも誠実な価値観。
「正式にお願いしたい」
ヴァルドは、はっきりと言った。
「ラグネスの財政顧問として、我々に力を貸してほしい」
地位ではない。飾りでもない。必要だから、という理由。その理由で誘われたのは、これが初めてだった。
エリシアは、少し考えた。そして、静かに頷いた。
「条件があります」
「聞こう」
「私は、誰かの“飾り”にはなりません。政治的な盾にも、象徴にもならない」
「数字が語ることだけを、仕事にします」
ヴァルドは笑った。条件を三つ並べても、彼は一つも値切らなかった。
「それでこそだ」
夕暮れ。
会議棟の窓から、港が見えた。荷を降ろし終えた船の甲板で、誰かが数を読み上げている。数えているのは、明日の分だ。今日の帳尻ではなく、明日の分を数える街だった。
エリシアは、新しい帳簿の最初の頁に、こう書き込んだ。
『ラグネス財政改革案・第一稿』
肩の力が、少しだけ抜ける。抜けてから、力が入っていたことに気づいた。
王宮で同じ紙を開いたときは、いつも先に「誰に見せるか」を考えていた。ここでは、まだ誰も見に来ない。ここには、数字を読む人間がいる。それだけで、十分だった。
王宮が、どんな顔でこちらを見るのか。それを知るのは、もう少し先でいい。
王宮での彼女の評価は『気が利く』でした。設計者に向ける言葉ではありません。次に届くのは、王宮からの封蝋つきの書状。文面は丁寧で、要点は一語――『これまで通り』。彼女がその一語にどう返すかは、宰相が誰もいない部屋で声に出して読むことになります。ブックマークと評価は、この作品における港湾使用料です。季節変動制ですが、閑散期はありません。




