第2話 彼女がいない会議
夜明け前の街道を、一台の馬車が北へ向かっていた。
窓の外に広がるのは、まだ冬の名残を残す畑と、静かな村々。時折すれ違う荷馬車の御者が、こちらを一瞥して通り過ぎていく。誰も、乗っているのが昨夜まで王太子の婚約者だった女だとは思わない。
馬車は、ルーヴェル家のものではなかった。扉の内側、目立たない位置に、商会の焼き印が残っている。
半月前、エリシアは一通の照会を出していた。宛先は商業都市ラグネス、商会連合。内容は王宮の財政とは何の関係もない――港湾使用料の季節変動について、統計を分けてもらえないか、というだけの問い合わせ。
返事は、三日で届いた。求めた統計のすべてと、末尾に一行。
『いつでも、お越しください』
そのときは、行くつもりはなかった。
エリシア・フォン・ルーヴェルは、膝の上で帳簿を開いていた。
書き込むのは、感情ではない。予測だ。
北方辺境防衛費の第二案。提出期限は、三日後。一次案との差額は、倉庫管理費の付け替えで吸収してある。そしてその付け替えの根拠は、彼女の整合表の中にしか存在しない。
財務局が異常に気づくまで――一日。代わりの数字を作ろうとして、作れないと分かるまで――二日。誰かが「彼女はどこまで把握していた」と口にするまで――三日。
ペンが、静かに紙の上を滑った。
『王宮が止まるまで:三日』
それは、呪いではない。ただの見積もりだ。
馬車が揺れ、帳簿の頁が一度めくれた。
その朝、王宮では。
財務局の会議室には、異様な空気が漂っていた。
長机の中央に積み上げられた書類。未整理の帳簿。修正の赤線が何重にも走る予算案。それらを前に、財務官と補佐官たちは誰一人として口を開けずにいた。
「……まずいな」
最初に声を出したのは、財務官長のラウルだった。彼は額に滲む汗を、布で何度も拭っている。
「北方辺境防衛費の第二案だが……数字が、合わん」
「そんなはずは……」
補佐官の一人が反論しかけ、言葉を詰まらせた。帳簿をめくる指が、止まる。
「一次案との差額が説明できない。輸送費が……いや、倉庫管理費が、ここで二重計上されている?」
「違う、それはエリシア様が――」
その名前が出た瞬間、会議室が静まり返った。
誰もが無意識に、空いている一席を見る。いつもそこにあった、地味な木製の椅子。目立たず、だが確実に全体を支えていた席。
「……彼女は、どこまで把握していた?」
ラウルの声は低かった。
「すべて、です」
答えたのは、若い書記官のマリアンヌ・フェルゼンだった。一晩眠っていないのだろう。目の下に濃い影がある。
「倉庫ごとの保管日数、輸送路の遅延率、季節ごとの穀物消費量……すべて、エリシア様の整合表にまとめられていました」
「では、それを出せば――」
「ありません」
マリアンヌは、はっきりと言った。
「原本も控えも、エリシア様が管理していました。財務局には、参照用の抜粋しか残っていません」
「……なぜ、複製を取らせなかった」
ラウルの声は、責めるというより、確かめるようだった。
マリアンヌは、目を伏せた。
「三年前に、一度お求めになりました。表そのものを、と」
「では――」
「写しは、作られました。ですが」
彼女は、言葉を選ぶ。
「読める者が、いなかったのです。半年で誰も開かなくなりました。以来、必要な数字だけを抜粋してお渡しする形に変わりました」
沈黙。
誰かが、喉を鳴らした。
「……つまり」
ラウルは言葉を選びながら、続ける。
「我々は、設計図のない建物を補修しようとしている、ということか」
答えはなかった。否定できる者が、いなかったからだ。
そこへ、勢いよく扉が開いた。
「どうなっている!」
第一王子レオンハルトの声だった。珍しく、苛立ちを隠していない。
「第二案が提出されていないと聞いた。どういうことだ」
ラウルは立ち上がり、深く頭を下げる。
「殿下。現在、再計算を――」
「再計算? 三日後が期限だぞ。なぜ間に合わない」
殿下の視線が、空席に向く。
「……ルーヴェル嬢は?」
一瞬の沈黙。誰もが答えを知っているのに、口に出せない。
「……昨日の件で、王宮を離れられました」
マリアンヌが、かすれた声で答えた。
レオンハルト殿下は眉をひそめる。
「だから何だ。彼女一人いなくなったところで、国の予算が止まるはずがないだろう」
その言葉に、誰も反論しなかった。反論できなかった。
代わりに、会議室の奥から、兵站担当官が一歩前に出る。
「殿下……穀物の輸送計画についても、問題が出ています」
「何だ」
「西部倉庫の在庫が、想定より二割少ない。原因が分からない」
「それくらい、現場に確認すればいいだろう」
「確認はしました。しかし……在庫調整は、ルーヴェル嬢の整合表を前提に組まれていたのです」
殿下の顔色が、僅かに変わった。
「……どういう意味だ」
「彼女の表には、“不足が起きる前提”での迂回ルートが組み込まれていました。我々は、その存在すら――」
言葉は、続かなかった。それ以上言えば、殿下の判断そのものを否定することになる。
レオンハルト殿下は、しばらく黙り込んだ。そして、低く言った。
「……彼女を呼び戻せ」
ラウルが一瞬、目を見開く。
「殿下。しかし、婚約は――」
「関係ない。今は王国の問題だ」
その言葉を聞きながら、マリアンヌは胸の奥が冷えるのを感じていた。
――違う。
問題は、そこではない。
エリシア・フォン・ルーヴェルは、命じられて戻るような人ではない。必要とされない場所に、留まることもしない。
彼女は、自分の価値を知っていない。だが、自分が“役に立てる場所”は、誰よりも正確に理解している。
「殿下」
マリアンヌは、意を決して口を開いた。
「エリシア様は……数字のために働く方です。地位のためではありません」
レオンハルト殿下は、彼女を睨んだ。
「何が言いたい」
「彼女を呼び戻すのなら――理由が必要です」
「理由?」
「はい。“必要だから”では、足りません」
殿下は言葉を失った。彼にとって、必要とされるのは常に自分の側だったからだ。
昼過ぎ。
馬車は、街道沿いの宿場で一度止まった。馬に水をやる間、御者が誰かと短く言葉を交わしている。王都から来た早馬の使いだった。声は、車内まで届いた。
「財務局が徹夜だとよ。予算が組めねえって話だ」
エリシアは、膝の帳簿を開いた。
夜明け前に書いた一行を、指でなぞる。
『王宮が止まるまで:三日』
……予想より、早い。
数字は正直だ。人の感情より、ずっと。だが今回は、その数字の方が甘かったらしい。
彼女はペンを取り、下に一行だけ書き足した。
『想定外:王宮側の対応速度、極めて遅い』
それは、復讐ではない。ただの記録だ。
馬車が、再び動き出す。
自分がいない世界が、どう動くのか。その答えは、もうすぐ向こうからやって来る。
予想より早く止まった王宮を、彼女は復讐ではなく見積もりの甘さとして処理しました。こういう人です。次回、商業都市ラグネス。財政資料を黙って読み、三点の問題を指摘する彼女に、ヴァルドが一言――『形にした人間と、設計した人間は別だ』。ブックマークは、あの馬車の焼き印のようなものです。目立たない位置に押しておくと、あとで行き先が分かります。




