第14話 救えないという選択
雨が降っていた。
港湾都市ハルフェンの石畳を、細かな雨粒が濡らしている。作業は滞りなく進んでいたが、人の足取りだけが、いつもより早い。雨でも荷役は止まらない。止まらない設計になっている。
エリシア・フォン・ルーヴェルは、外套のフードを深く被り、倉庫街を歩いていた。昨日と同じ道を、同じ時刻に歩いている。
トーマスの姿は、そこにはなかった。代わりに、見知らぬ顔が同じ荷を運んでいる。動きは速い。若い。荷の担ぎ方は、昨日の男とほとんど同じだった。
「入れ替わり、ですか」
背後から声がした。アルノー・リヒターだった。傘は差していない。肩が濡れているのに、気にしている様子もない。
「制度が回れば、人は入れ替わる。それだけのことだ」
エリシアは立ち止まり、振り返る。
「あなたは、それを当然だと思っていますか」
「当然だ」
即答だった。当然だ、と言うときの速さが、この人はいつも同じだ。
「全体を救うために、個を切る。制度とは、そういうものだ」
エリシアは、しばらく何も言わなかった。雨音だけが二人の間を満たす。荷を積み終えた男が、荷車を押して坂を下っていった。
「……私も、理解しています」
ようやく、そう口にした。
「全員を救う制度は存在しません。それは幻想です」
アルノーは、わずかに眉を上げた。幻想です、と切り捨てられるとは思っていなかったらしい。
「なら、何が不満だ」
「不満ではありません」
エリシアは首を振る。
「ただ、切られることが、あまりにも無言で行われています」
アルノーは冷静に答える。
「制度は、説明を求められない。理解できない者が悪い」
その言葉は正論だった。だが、エリシアの胸には重く残った。理解できない者が悪い、という一文を、彼女は二年前に一度、自分に向けられている。
「私が王宮を出た理由を、覚えていますか」
「婚約破棄だろう」
「ええ。でも、それだけではありません」
エリシアは、雨に煙る港を見渡す。艀の輪郭が滲んでいた。
「私も、説明されませんでした。なぜ不要になったのか。何が足りなかったのか」
アルノーは口を閉ざした。婚約破棄だろう、と即答したことを、たぶん少しだけ悔いている。
「理解できなかったのは、私の責任です。でも、理解できる機会すら与えられませんでした」
沈黙が落ちる。アルノーはゆっくりと息を吐いた。吐いた息が、雨の中で白くなった。
「君は、制度に人の尊厳を組み込みたいのか」
「いいえ」
エリシアは静かに否定した。尊厳という語を、彼女は制度の話には持ち込まない。
「尊厳は、制度では守れません。でも、説明はできます」
彼女は、外套の内側から小さな綴りを取り出した。雨が当たらないよう、体で庇いながら開く。一枚目に、日付と名前が一つだけ書かれている。
「切るなら、切る理由を言葉にする。次に進むための道筋を示す。それだけで、人は捨てられたと感じずに済みます」
アルノーは、しばらくその紙を見つめていた。一枚目に、名前が一つしか書いていない綴りだった。
「……非効率だ」
「はい」
エリシアは即座に認めた。
「だから私は、あなたの制度を否定しません。ただ、別の記録を残します」
「記録」
「切られた後、どうなったかという記録です」
雨が少し強くなる。フードの縁から雫が落ちた。綴りは体で庇ったまま、閉じずにいる。
「あなたの制度は、成功します。そして、真似されます」
エリシアははっきりと言った。
「そのとき、誰も後を見なければ、同じ脱落が別の場所で繰り返されます」
アルノーは、初めて目を逸らした。真似されます、という言い方が、彼にはいちばん効いた。
「君は……」
「私は、全員を救いません」
エリシアの声は揺れていなかった。
「でも、救えなかったことを、なかったことにはしません」
アルノーはしばらく沈黙した後、短く言った。
「……好きにしろ」
拒絶ではない。容認に近い言葉だった。彼は踵を返し、雨の中を戻っていく。振り返らなかったが、歩調は来たときより遅かった。石畳の水を、避けずに歩いていた。
その夜、エリシアは執務室で綴りを開いた。
昨日、見出しを決められなかった一枚目。彼女はペンを取り、行の上に空けておいた余白へ、短く書き入れた。
『制度外記録』
その下に、トーマスの名前と、日雇いの荷運びという一行を書く。それから、来月から港に入るという十九歳の息子のことも、括弧に入れて書き添えた。今はまだ何も起きていない。だが、起きたときに比べるものがなければ、起きたことに気づけない。
どの国からも求められていない仕事だった。利益にもならない。提出先も、期限も無い。
書き終えて、彼女は綴りに紐を通した。二枚しかない綴りに紐を通すのは、まだ早い。だが、早いうちに通しておかないと、増えたときに順番が分からなくなる。
窓の外で雨が上がり、庇の水が一滴ずつ落ちていた。エリシアは灯りを消し、その音を数えながら部屋を出た。
制度外記録、と名がつきました。綴りに紐を通す理由も、本文の中に置いてあります。次回、舞台は王都へ戻ります。王子がシュタインベルクの成功を真似た改革を通達し、地方倉庫に新顔の監査官クレア・ミルトンが立ちます。彼女の最初の報告書は、赤字一行で差し戻されます。『感想ではなく、数値で示せ』。




