第13話 成功の裏側
港湾都市ハルフェンは、朝から荷の音で満ちていた。
入出港の待ち時間は半分になり、事故は先月ゼロ。保管ロスは記録上、ほとんど出ていない。数字は、どこを切っても文句のつけようがなかった。文句のつけようがない数字を、この二か月で三度見ている。
会議室で報告を受けた同盟幹部の一人が、満足げに頷く。
「これほど短期間で結果が出るとは」
「さすがはアルノー殿の設計だ」
称賛の視線が、アルノー・リヒターに集まる。彼は軽く手を上げただけで、評価を受け流した。受け流し方に、慣れがある。
「設計の検証をしただけだ。制度は、正しく使えば応える」
その視線が、エリシア・フォン・ルーヴェルへ向く。
「外部顧問として、意見は」
エリシアは、一瞬だけ間を置いた。意見は、と訊かれる場を、この幹部たちは形式だと思っている。
「数字の上では、完全です」
それは事実だった。誇張でも皮肉でもない。ただし、上では、という一語を頭に付けてある。
「ただし」
彼女は、用意していた資料を机に置いた。紙は二枚。片方は港の実績表で、もう片方は、誰にも求められていないものだ。
「港の外で起きていることも、報告しておきます」
室内の空気が、わずかに引き締まる。港の外、という言い方を、この部屋で聞いた者はいない。
「作業員の契約更新率が、想定より早く下がっています。特に、四十代以上の層です」
「効率が低い層だな」
アルノーは即座に応じた。効率が低い層、という言い方に、ためらいが無い。
「再教育の枠は」
「ありません」
エリシアは淡々と答える。
「彼らは、港の外で非公式の仕事に流れています。記録に残らない形で」
「違法ではない」
「はい。ですが、制度の外に押し出されています」
幹部の一人が眉をひそめた。押し出されている、という語を、比喩だと受け取ったらしい。
「それが、何か問題か」
「今は、問題になりません」
エリシアは正直に言った。今は、と付けておかないと、この先の話が誇張になる。
「ですが、積み重なります」
彼女は別の資料を開く。港湾周辺の治安指標に、わずかな変化が出ている。まだ誤差の範囲だ。誤差の範囲であることは、こちらが先に書いてある。
「誤差だ」
アルノーが遮る。
「制度を疑うには、弱すぎる」
エリシアは否定しなかった。
「ええ。だからこそ、今は記録に留めます」
会議は、そのまま成果の確認で締めくくられた。誰も反対しない。反対する理由が、数字の上には存在しないからだ。
廊下へ出たところで、アルノーが呼び止めた。
「不満か」
「いいえ」
エリシアは首を振る。不満か、という問い方をされたのは初めてだった。
「これは、あなたの制度です。成功しています」
「なら、それでいい」
アルノーは、窓の下の港を見下ろした。船が三隻、同時に接岸している。二年前なら、考えられない光景だった。
「全員を救おうとすれば、全体が沈む。それは、君も理解しているはずだ」
「理解しています」
エリシアは静かに答えた。
「だから私は、止めません」
アルノーは、わずかに目を細めた。評価とも警戒とも取れる視線だった。止めません、という言い方には、続きがある。
その夕方、エリシアは倉庫街の外れへ足を向けた。石畳が途切れ、荷車の轍が土に変わるあたりで、荷を担いだ男が一人、立ち止まって腰を伸ばしている。
トーマス。長くこの港で働いてきた男だ。名を聞いたのは、契約更新率の数字を追って、実際に更新されなかった十七人のうち三人に会いに来たときだった。
「……俺たちは、遅いんだそうだ」
男は苦笑した。
「若い連中の足を引っ張るって」
エリシアは、何も言わなかった。言えば、慰めになる。慰めは、この人が求めていないものだ。
「悪い制度じゃない。仕事も、確かに楽になった。腰が保つようになった」
トーマスは足元の石を蹴る。石は転がって、荷車の車輪に当たって止まった。
「ただ……俺の居場所は、なくなった」
その声は静かだった。怒りも、恨みもない。それがかえって重かった。怒っている人には、返す言葉がある。
エリシアは、胸の奥が締めつけられるのを感じた。だが、表には出さない。
「今は、どうしていますか」
「倉庫の荷運びを、日雇いで。記録には残らない仕事だ」
制度は彼を救わなかった。だが、違法でもない。誰も規則を破っていない。
「名前を、伺ってもよろしいですか」
男は、少し驚いた顔をした。名前を訊かれること自体が、この半年で無かったのだろう。
「聞いてどうする」
「書いておきます」
エリシアは言った。
「どこにも出しません。ただ、書いておきます」
トーマスは、しばらく考えてから、名乗った。それから、思い出したように付け足した。
「息子が、来月から港に入る。十九だ。あいつは、たぶん更新される」
エリシアは頷いた。その一言のほうが、契約更新率の表よりも正確に、この港で起きていることを説明していた。
帰り道は、日が落ちきる前だった。エリシアは執務室に戻り、新しい綴りの一枚目を開いて、行の頭に日付を入れた。
その下に、名前を一つ書く。
まだ、その紙には見出しがない。何と呼ぶべきかを、彼女はまだ決めていなかった。
トーマスの息子は、たぶん更新されます。この一言のために、契約更新率の表を先に出しました。次回は雨の回です。見出しのなかった一枚目に、彼女が名前をつけます。アルノーがそれを見て言うのは、『非効率だ』の一言。彼はそこで止まりません。




