第12話 制度は誰を救うのか
港湾都市ハルフェンの会議室は、驚くほど静かだった。
分厚い防音壁、無駄を削ぎ落とした机と椅子。装飾は一切なく、あるのは数字と図表だけだった。掛かっている暦にも、絵は入っていない。
エリシア・フォン・ルーヴェルは、壁一面に投影された港湾データを見つめていた。
「入出港効率、事故率、保管ロス……すべて改善傾向ですね」
「当然だ」
アルノー・リヒターは腕を組み、淡々と答える。
「作業工程を再分解し、平均値から外れる要素を排除した。結果が出ない方がおかしい」
エリシアは頷いた。事実として、それは正しい。正しさを認めておかないと、この先の話が感情論になる。
「ただし」
彼女は視線を落とし、別の資料を開いた。
「港湾周辺の居住区で、人口流出が始まっています」
アルノーの眉が、わずかに動く。人口流出、という語は、この部屋の資料のどこにも出てこない。
「効率の低い労働者が仕事を失えば、当然だろう」
「“当然”で済ませるには、速度が速すぎます」
エリシアは続ける。
「再教育制度が追いついていない。仕事を失った人が、次に移るための“緩衝”が存在しません」
「必要ない」
即答だった。必要ない、という判断を、彼は迷わずに下せる。
「同盟は、結果を出す場所だ。救済は、別の制度が担えばいい」
エリシアは、静かにアルノーを見た。存在しない場合は、という問いを、彼はたぶん考えたことがない。
「では、その“別の制度”が存在しない場合は?」
「作ればいい」
「誰が?」
一瞬の沈黙が挟まる。誰が、という問いに答える用意は、たぶん無い。アルノーは、口角を上げた。
「君は、制度に“感情”を持ち込むなと言われたことはないか」
「あります」
「だろうな。だが、私は逆だ。制度に感情を持ち込まないと決めている」
アルノーは、投影された数字を指差す。指した先の三つは、どれもこの半年で改善している。
「ここにあるのは、事実だ。改善された効率、増えた利益、減った事故」
「それが、正しい」
「ええ」
エリシアは否定しなかった。
「ただ、私が見ているのは“次の段階”です」
「次?」
「制度が、人の生活を変えた“後”です」
彼女は、資料の一頁をめくる。めくった先の記録は、同盟の様式で書かれていない。
「ここに記録があります。元港湾作業員が、周辺地域で非公式労働に流れている」
「違法ではない」
「ですが、見えなくなります」
アルノーは、ゆっくりと息を吐いた。救おうとしている、という言い方に、揶揄は入っていない。
「……君は、すべてを救おうとしている」
「いいえ」
エリシアは、資料を閉じた。
「三十分、お時間をいただけますか」
港の南、倉庫街の外れに、荷の積み替え場があった。
正規の桟橋ではない。台帳にも載らない場所だ。それでも荷は動いていて、担いでいるのは作業着を着ていない男たちだった。渡した板は幅が狭く、二人がすれ違えない。
「日雇いだ」
アルノーが言う。
「賃金は正規の六割。事故が起きても、記録は残らない」
「ご存じなのですね」
「知っている。だが、同盟の管轄ではない」
その中に、見覚えのある背中があった。
トビアス・レン。八年。
彼は、こちらに気づいていない。麻袋を担ぎ、板を渡り、また戻る。速くはない。だが、止まってもいなかった。八年ぶんの担ぎ方だった。
「彼の処理速度は、ここでは測られません」
エリシアは、静かに言った。
「測られないから、遅くても切られない。切られないから、事故が起きても数えられない。――彼は、いなくなったのではありません。数えられない場所へ移っただけです」
アルノーは、答えなかった。管轄ではない、という先ほどの返事を、繰り返さなかった。
「私は、すべてを救おうとしているのではありません」
積み替え場に背を向けて、彼女は続けた。背を向けたのは、見続けていられなかったからでもある。
「“切るなら設計しろ”と言っているだけです」
「設計?」
「はい。切るなら、切った先を用意する。それをしないのは、“制度の怠慢”です」
アルノーは、しばらく黙って彼女を見つめた。怠慢、という語を使われて、言い返さなかったのは初めてだ。
「君は、制度を“善”だと思っている」
「思っていません」
エリシアは、静かに首を振る。善だと思っていたら、ここまで慎重にはならない。
「だからこそ、怖いのです。制度は、意図せず人を傷つけます」
それは、王国で学んだことだった。善意の補助金が、市場を壊したように。壊した本人は、壊したことに気づかないまま次の案を出す。
「……面白いな」
アルノーは、小さく笑った。面白いな、という言い方に、駆け引きの色は無かった。
「君は、制度を“人の延長”として見ている」
「あなたは?」
「私は、制度を“力”として見る」
同じ言葉、同じ数字。だが、意味はまったく違う。違うまま、この港は動き続ける。
「結論を出そう」
アルノーは、机に手をついた。
「この港の制度は、今後もこの方針で進める。効率を最優先だ」
「承知しました」
エリシアは、あっさりと答えた。承知しました、で会話を終わらせない準備は、もうできている。
「ただし」
彼女は、最後に一言付け加える。
「結果は、すべて記録します。良い結果も、悪い結果も」
アルノーは、わずかに目を細めた。武器にするつもりか、という問い方に、警戒は薄い。
「君は、記録を武器にするつもりか」
「いいえ」
エリシアは、穏やかに微笑んだ。武器という言葉を、否定するのに力を使わなかった。
「未来のために残すだけです」
帰り道、港の空気が肌に触れた。流れは、今日も完璧だ。坂の下の積み替え場からは、掛け声も鐘も上がらない。
だが、その完璧さが、いつまで続くのか。
エリシアは、心の中で一つだけ記した。
――制度は、誰を救い、誰を切るのか。
その答えは、まだ数字になっていなかった。
制度は誰を救うのか。この作の問いを短く言うと、この話のタイトルになります。答えは急ぎませんが、途中で一枚の紙にはなります。続く回は成果報告の席から。求められていないもう一枚を机に置いた彼女は、その夕方、倉庫街の外れで会う男の名前を、見出しのない紙の一行目に書きます。ブックマークと評価は、この港の帳簿では保管ロスの逆側に計上されます。




