第14話 救えないという選択
雨が降っていた。
港湾都市ハルフェンの石畳を、細かな雨粒が濡らしている。
作業は滞りなく進んでいたが、どこか人の足取りは早い。
エリシア・フォン・ルーヴェルは、外套のフードを深く被り、倉庫街を歩いていた。
昨日会った男――トーマスの姿は、そこにはない。
代わりに、見知らぬ顔が荷を運んでいる。
「入れ替わり、ですか」
背後から声がした。
アルノー・リヒターだった。
「制度が回れば、人は入れ替わる。
それだけのことだ」
エリシアは立ち止まり、振り返る。
「あなたは、それを“当然”だと思っていますか」
「当然だ」
即答だった。
「全体を救うために、個を切る。
制度とは、そういうものだ」
エリシアは、しばらく何も言わなかった。
雨音だけが、二人の間を満たす。
「……私も、理解しています」
ようやく、そう口にした。
「全員を救う制度は存在しない。
それは、幻想です」
アルノーは、わずかに眉を上げた。
「なら、何が不満だ?」
「不満ではありません」
エリシアは首を振る。
「ただ……
“切られること”が、あまりにも無言で行われている」
アルノーは、冷静に答える。
「制度は、説明を求められない。
理解できない者が悪い」
その言葉は、正論だった。
だが、エリシアの胸には、重く残った。
「……私が王宮を出た理由を、覚えていますか」
「婚約破棄だろう」
「ええ。でも、それだけではありません」
エリシアは、雨に濡れた港を見渡す。
「私も、説明されませんでした。
なぜ不要になったのか。
何が足りなかったのか」
アルノーは、口を閉ざした。
「理解できなかったのは、私の責任です」
エリシアは、はっきりと言った。
「でも、理解できる機会すら与えられなかった」
沈黙。
アルノーは、ゆっくりと息を吐く。
「君は、制度に“人の尊厳”を組み込みたい」
「いいえ」
エリシアは、静かに否定した。
「尊厳は、制度では守れません。
でも、“説明”はできます」
彼女は、手にしていた小さな帳簿を開いた。
「切るなら、切る理由を言葉にする。
次に進むための道筋を示す。
それだけで、人は“捨てられた”と感じずに済む」
アルノーは、しばらくその帳簿を見つめていた。
「……非効率だ」
「はい」
エリシアは即座に認めた。
「だから私は、あなたの制度を否定しません。
ただ、別の記録を残します」
「記録?」
「“切られた後、どうなったか”という記録です」
雨が、少し強くなる。
「あなたの制度は、きっと成功します。
そして、真似される」
エリシアは、はっきりと言った。
「その時、誰も“後”を見なければ、
同じ脱落が、別の場所で繰り返される」
アルノーは、初めて目を逸らした。
「君は……」
「私は、全員を救いません」
エリシアの声は、揺れていなかった。
「でも、救えなかったことを、
“なかったこと”にはしません」
それが、自分にできる唯一の選択。
アルノーは、しばらく沈黙した後、短く言った。
「……好きにしろ」
それは拒絶ではない。
容認に近い言葉だった。
その夜、エリシアは執務室で帳簿を開いた。
新しい頁の見出しに、こう記す。
『制度外記録』
そこに、トーマスの名前を書き、
その後の経過を、淡々と記録し始める。
それは、どの国からも求められていない仕事。
利益にもならない。
だが――
「……これは、私の仕事です」
エリシアは、静かにペンを走らせた。
救えないと知った上で、
それでも“残す”ことを選ぶ。
それが、彼女の立つ場所だった。




