第135話 対等という実務
年が明けて、最初の報告の日だった。港湾分の年次を財務局へ渡し、そのあとに王太子への報告が一件。事務的な用件で、四半刻もかからない。廊下はまだ暖まっておらず、窓の下に霜が残っていた。
用件が終わって、レオンハルトが言った。
「差分は、三年で問われるな」
「はい」
「読まれたかどうかを、どう測る」
「そこを、いま作っています」
エリシアは、綴りを閉じながら答えた。
「案は三つあります。判定書を後から参照した回数を数える。差分欄を根拠に異議が出た件数を数える。三つ目は、外された先を三年後に見に行って、差分欄が手元に届いていたかを訊く」
「三つ目は、手間がかかる」
「かかります。ですが、一つ目と二つ目は、監査局が自分で数えます」
「自分の成績を自分で数えるな」
「はい」
レオンハルトは、短く息を吐いた。
「三つ目でやるしかないか」
「そうなります」
「その手間は、誰が持つ」
「ハルフェンで持ちます」
エリシアは言った。
「ですが、一つお願いがあります」
「言え」
「三年後の判定に、殿下が関わらない形にしていただきたい」
レオンハルトは、机の上で手を止めた。
「私が議題に載せた」
「はい。ですので、三年後も殿下が見届ける立場にいらっしゃいます。その立場のまま判定に触れられると、差分欄は殿下の欄になります」
「私が退けば消える欄になる、ということか」
「なります」
彼女は、はっきり言った。
「ですので、三年後の報告は、評議会ではなく監査局の年次所見の中で扱う形にしていただきたい。殿下は、報告を受けるだけの立場に」
レオンハルトは、しばらく黙っていた。
「無理だ」
短い返事だった。エリシアは、瞬きを一つした。それだけだった。
「理由を伺っても」
「議題に載せたのは私だ」
彼は言った。
「載せた者が三年後に受けるだけの立場に退くのは、責任の放り出しだ。局の側から見れば、王太子が旗色の悪いときに手を引いた、という話になる」
「……なりますね」
「私は、対等でいたいと言った」
レオンハルトは続けた。
「対等というのは、こちらの都合が悪くなったときに、その場から降りないことだ。降りていい約束なら、最初から対等ではない」
エリシアは、その理屈を受け取った。彼女の設計としては、彼が退いたほうが正しい。人に乗った制度は、人が去ると消える。それは、彼女が最初から一貫して言ってきたことだ。
だが、彼の言っていることも、間違っていない。人に乗せないという原則は、乗っている人を途中で降ろす口実にもなる。降りた人の名前は、降りた時点でどの紙からも消える。消えたぶんだけ、次に何かを引き受ける人が減っていく。二年前の彼女は、そこまで考えていなかった。
「では、どうなさいますか」
「三年後、私はまだ関わる」
彼は言った。
「代わりに、私が関わったという事実を、差分欄に書け」
エリシアは、顔を上げた。
「殿下が」
「私が三年後の判定に関わったと、判定書に残せ。誰が関わったかを書く欄を、お前が作ったのだろう」
彼女は、しばらく言葉が出なかった。
「……それは、殿下のご不利になります」
「なる」
「三年後に廃止されたとき、廃止に王太子が関わったと残ります」
「残る」
レオンハルトは、あっさり認めた。
「残らなければ、次の代の王太子が同じことをする。関わったのに書かれない、という前例だけが残る」
エリシアは、綴りを開き直した。書き取る。項の名前は、まだ無い。名前が無い項は、そのうち消える。名前を付けるのは、たぶん監査局の誰かになる。彼女が付けると、それは彼女の欄になってしまう。差分という名前を一度だけ付けたのは、あのとき他に呼びようが無かったからだ。二度目は、いらない。
「では、そのように」
「ああ」
用件は、それで終わった。彼女は立ち上がり、扉のほうへ歩いた。三歩ほど歩いて、止まった。
「殿下」
「なんだ」
「来月の十日に、港に来ていただけますか」
レオンハルトが、顔を上げた。
「用件は」
「ありません」
エリシアは言った。
「荷役の音を聞いていただきたい、というだけです。制度が日常になったところを、一度も見ていらっしゃらないので」
レオンハルトは、机の上の予定表に目を落とした。それから、言った。
「無理だ」
「そうですか」
「来月の十日は、北方の使節が入る」
「では、結構です」
エリシアは、あっさり言った。
「それだけです」
彼女は、扉に手をかけた。
「エリシア」
名を呼ばれて、振り向く。
「別の日は、訊かないのか」
「訊きません」
彼女は答えた。
「訊くと、取り決めになります」
レオンハルトは、しばらく彼女を見ていた。それから、小さく頷いた。
「……そうだったな」
「はい」
「破綻しないな、これは」
「破綻しません」
エリシアは言った。
「無理だ、と言っていただけましたので」
彼女は会釈をして、部屋を出た。扉が閉まったあと、レオンハルトは予定表をもう一度見た。
来月の十日。北方の使節。動かせない。
その次の週は、空いている。
彼は、そこに何も書かなかった。
書けば、取り決めになる。
恋愛を一ミリも進めない、と決めて書いている二人です。頼みが断られて、それで何も欠けない。作者としては、これが第2部でいちばん親密な場面のつもりで書きました。第2部の最終話が、次に来ます。監査局から届いた判定書の署名欄に、エリシアの知らない名前があります。




