第134話 空白でない欄
クレア・ミルトンは、一覧の二十三件を、その年の暮れに書き終えた。
春の評議会から、半年以上かかっている。遠い先は往復で七日かかり、行った先で三日待たされることもあった。待っているあいだに、彼女は町の帳面を読ませてもらう。読ませてもらえない先も、二つあった。
ハルフェン本部の実務室の長机に、二十三枚を順に並べる。並べるのに、机の端から端までを使った。
どの一枚も、形は同じだった。上から地名、判定の日付、外された理由、その後。そして、いちばん上に名前の欄がある。
最初、彼女はその欄を作るつもりがなかった。
二年、彼女は責任者欄を作らずに書いてきた。名前を書けば主張になり、主張は処理される。それが彼女の設計だった。
欄を作ることにしたのは、十七件目のあとだった。二十三件のうち十六件を回り終えても、まだ作るつもりはなかった。
ルーヴェル伯爵領の記録係が、二領で検証者を分ける案を聞いて、震える手で書き取った。あの手つきを見て、彼女は思った。
この人は、これから何かを始める。始めた人には、名前が要る。
名前が要るのは、責任を取らせるためではない。始めたのが誰かを、三年後に確かめられるようにするためだ。
二十三枚。名前の欄は、全部埋まっていた。
一件目の西部第三記録所には記録係の名があり、七件目の東部の村には村の書記の名があった。十一件目の南の宿場町は宿の主人が自分で書いている。十七件目のルーヴェル伯爵領は、あの老いた記録係の字だった。二十三件目の学校区だけが、大人の字ではない。イルゼ、と書いてある。
そして、三件目。
『リーデン町 簡易公開 除外決定』
『その後:除外発効。取引照会は前年比で四割減。掲示は継続中』
『責任者:ヨナス・レント』
クレアは、その一枚をしばらく見ていた。
二か月前、彼女は二度目にリーデン町へ行った。ヨナス・レントは、まだ月次を貼っていた。載らなくなったのに、貼っていた。
なぜ続けるのかと訊いた。
彼は、答えるのに少し時間をかけた。
──やめると、やめた日が分かってしまうので。
それが、答えだった。
クレアは、その言葉を一覧に書かなかった。事実ではないからだ。理由は、書く欄がない。
書かなかったが、覚えている。覚えておくのは、記録ではない。だが、覚えておく人がいてもいいと、この一年で思うようになった。
二年前の彼女なら、この一言も紙に落とそうとしただろう。落とせないものは無かったことになる、と信じていたからだ。二十三件を回って分かったのは、その逆だった。紙に落ちなかったものを覚えている人が一人でもいる先は、たいてい、まだ何かが続いている。
夕方、エリシアが実務室に入ってきた。二十三枚を、端から順に見ていく。時間をかけて見た。
「ミルトン様」
「はい」
「名前の欄を、お作りになったのですね」
「作りました」
「二年、作らないと決めていらしたのに」
「決め直しました」
クレアは言った。
「二年前の私は、名前を書くと主張になる、と考えました。それは、記録が一人ぶんしかなかったからです」
彼女は、机の端から端までを手で示した。
「二十三あると、主張になりません。並ぶだけです」
エリシアは、その説明を聞いて、頷いた。
「では、五冊目のほうは」
「あちらは、今も作っていません」
クレアは答えた。
「毎朝の記録は、これからも一人ぶんです。一人ぶんの記録に名前を書くと、やはり主張になります」
「二つを、書き分けていらっしゃる」
「はい」
エリシアは、二十三枚のいちばん端──マリアンヌ・フェルゼンから送られてきた二年目の集計表を、隣に置いた。
様式が違う。王宮財務局の罫だ。だが、いちばん上の欄の位置は同じだった。
『責任者:マリアンヌ・フェルゼン』
その隣に、イルゼの綴りの一枚目を置く。
『責任者:イルゼ』
三つの紙が、並んだ。
書いた人も、書いた場所も、書いた目的も違う。様式も揃っていない。監査局の基準に照らせば、三つとも不適合だろう。
ただ、いちばん上の欄が、三つとも空白ではなかった。
「ミルトン様」
「はい」
「二年前、王宮の財務局に、責任者が空白の整合表がありました」
エリシアは、三枚を見たまま言った。
「誰かが埋めてくれるのを、みなが待っていました。誰も座らない椅子を見ているように」
クレアは、その話を知らない。だが、話の形は知っていた。監査局にも、同じ椅子があった。誰も座らないので、通るたびに少しずつ埃が積もる。積もっていることを誰も言わない。言えば、座れと言われるからだ。
「いま、埋まっています」
エリシアは言った。
「私が埋めたのではありません。埋めた人が、それぞれいます」
彼女は、二十三枚のうちの一枚に、指を置いた。三件目だった。
「レント様に、写しを送ってください」
「一覧の、ですか」
「二十三枚、全部です」
エリシアは言った。
「ご自分の一枚だけでは、並んでいることが分かりません」
クレアは、頷いて、書き取った。
書き取ってから、少し手を止めた。
「二十三枚を送ると、あの方は、二十二件ぶんの落ち方を読むことになります」
「はい」
「慰めには、なりません」
「なりません」
エリシアは言った。
「ですが、あの方が知りたいのは、慰めではないと思います」
一人ぶんの記録に名前を書けば主張、二十三並べば風景。クレアの決め直しは、第2部で書けて良かった理屈の一つです。自分の設計を自分で上書きした人が、この部には何人かいます。次回、年明けの王宮。エリシアの小さな頼みへの返事は、短い「無理だ」。ブックマークと評価は、写字所の紙代くらいには回ります。




