第136話 誰も設計者ではない場所
※第2部の最終話です。
春先の報告書は薄い。二年前と同じことを、エリシア・フォン・ルーヴェルは思った。冬のあいだに溜まった案件が年度の切り替えで一度片づくので、この時期だけは紙束が軽くなる。
ただ、あのときと一つ違うことがあった。彼女の机に載る紙が、去年より少ない。
「アルノー」
「はい」
「今期、ハルフェンへの照会は何件でしたか」
「三十一件です」
「前期は」
「五十四件でした」
エリシアは、頷いた。減っている。四割ほど。
理由は、はっきりしている。監査局の判定書に差分欄が付いたので、外された先が「なぜ外れたのか」をハルフェンへ訊きに来なくなった。判定書を読めば、書いてあるからだ。
窓口が一つ減った、という言い方もできる。彼女に訊かなくても済むようになった、という言い方もできる。どちらも同じことだった。
「ルーヴェル様」
アルノーが、机に一枚を置いた。置き方が、去年より少し軽い。届けるのが珍しくなくなった紙の置き方だった。
「監査局から、様式の見本が届いております。今期の判定から、実際に運用が始まった分です」
エリシアは、それを手に取った。上から順に、案件名。判定日。適用項番。判定。そして、新しい欄。
『この判定に用いなかった数値:更新回数二十二(うち期日内二十)。欠測なし。当該記録所は昨年、隣領と検証者を共有する運用に移行。出典:民間集計および現地聴取』
そして、いちばん下。
『判定者:──』
署名の名は、知らない名前だった。
エリシアは、その一行を少し長く見た。監査官の名簿は、去年まで頭に入っていた。二十人ほどの局だ。名前と担当を覚えるのは難しくない。この名前は、去年には無かった。
彼女は、その紙を裏返さずに、机に置いた。裏返せば、知らない名前を見ないで済む。見ないで済ませる癖は、この二年でいくつか手放した。
「良い判定です」
「どこがでしょうか」
アルノーが訊いた。
「差分欄の書き方が、私の見本より短い」
エリシアは言った。
「私は、見本で四行書きました。これは三行です。三行で足りるところを四行書いていたのは、私が説明したかったからです。説明したい人が書くと、長くなります」
「では、この方は」
「説明したいと思っていない人です」
彼女は、報告の束を引き寄せた。
「日常になった、ということです」
午後、ヴァルド・グレインが顔を出した。用件があるときは扉を叩く男で、この日は叩かなかった。
「暇そうだな」
「暇です」
エリシアは、あっさり認めた。
「三十一件です。前期の六割です」
「困るか」
「困りません」
「本当か」
彼女は、少し考えた。
「……少し、慣れません」
「そうだろうな」
ヴァルドは、窓辺に寄った。二年前と同じ側の窓で、同じところに立った。
「初めてお前がここへ来たときは、朝から晩まで人が並んでいた。並んでいないと不安になる質じゃないのか」
「不安ではありません」
エリシアは言った。
「ただ、自分がどこにいるのかを、少し確かめたくなります」
「どこにいる」
「分かりません」
彼女は、正直に答えた。
「設計者ではありません。その椅子は、とうに降りました。監査と助言の立場です。ですが、監査は監査局がします。助言は、訊かれなければ要りません」
「訊かれなくなったな」
「はい」
ヴァルドは、笑わなかった。珍しいことだった。
「それを、お前は目指していたはずだ」
「はい」
「では、達成だ」
「達成です」
エリシアは言った。言ってから、自分の声が思ったより平らだったことに気づいた。
夕方、郵便が届いた。その中に、リーデン町からの一通があった。差出人は、ヨナス・レント。
中身は、手紙ではなかった。表が一枚だけ入っていた。
対照表だった。基準の第二十六項に従って作られた、二年ぶんの月次の対照表。除外された町の、載る先のない対照表。
いちばん上の欄に、名前がある。二年前、この町の掲示に責任者の欄は無かった。
『責任者:ヨナス・レント』
裏に、一行だけ書いてあった。
『今年から、書ける者が三人になりました』
エリシアは、その一行を読んで、しばらく動かなかった。三人。二人だった町で、一人が出ていって、一人になった。そこから、三人になった。
どうやって増えたのかは、書いていない。訊けば答えるだろう。だが、訊く必要はなかった。
彼女は表を机に置き、窓のほうを見た。港では、荷役が動いている。去年と同じ音だ。一昨年とも、その前とも同じ音だ。この音は、彼女が作ったものではない。彼女が来る前から鳴っていた。
彼女が作ったのは、この音を数える形と、数えた数字を誰に渡すかを決める仕組みだけだった。その仕組みは、いま、彼女の知らない名前で回っている。
制度は、完成しない。
それは、王宮を出たときに彼女が出した結論で、いまも変わっていない。ただ、完成しないものを、自分が抱えていなくてもいい日が来る、とは思っていなかった。
エリシアは、机の上の三枚を並べた。監査局の判定書には、知らない名前の署名がある。クレア・ミルトンの一覧には、二十三の埋まった欄がある。ヨナス・レントの対照表は、載る先のない一枚だ。
どれも、彼女の名前が書かれていない。
彼女は、その三枚をしばらく見ていた。それから、抽斗を開けて、白紙を一枚出した。いちばん上に、欄を作る。作ってから、そこを空けたまま、机に置いた。
空けておくことにした。誰が埋めるかを、決めないでおく。
窓の外で、灯りが点き始めている。
消えない。
第2部は、作ったものを手放す話でした。手放した先で、知らない名前が判定書に署名し、載る先のない対照表が届く。それを「達成です」と平らな声で言う主人公を、作者は少し気の毒に、かなり誇らしく思っています。
監査局長は、最後まで悪人になりませんでした。彼が正しかったことと、彼の基準が町を外したことは、どちらも本当のままです。
閉じていない帳簿は、閉じないでおきます。マリアンヌの三年目の用紙は刷ったばかりで、テオドールの手続きにはまだ名前がありません。
ここまでお付き合いくださって、ありがとうございました。ブックマークと評価は、載る先のない対照表の載る先の一つとして受け取ります。




