第132話 これは、私が書いた数字です
イルゼは、四か月書いた。最初の一か月は、三行しか書けなかった。
書くことが無いのではない。書き方が分からなかった。いつ、どこで、誰に、どう言われたか。事実だけで、と言われた。腹が立ったかどうかは書かなくていい、と。
だが、書こうとすると、腹が立ったことのほうが先に出てきた。書き始めの三行は、三行とも自分の気持ちで埋まって、事実がどこにも残らなかった。
二か月目に、要領が分かった。先に日付と場所を書く。それから、言われた言葉をそのまま書く。自分がどう思ったかは、書かない。書かないと決めると、かえって手が動いた。
三か月目、書いたものを読み返して、彼女は一つ気づいた。言われる相手が、偏っていた。乾物屋。針子。街道の宿。この三つで七割だった。学校の中では、一度も言われていない。街の役所でも言われていない。
それから、時期も偏っていた。支援配分の掲示が貼り替わる月の、次の週。そこに集まっている。
イルゼは、その二つを紙の端に書いた。罫の中には書かなかった。中に書くと、他の行と同じ重さになってしまう気がした。
『言われる場所は三つ。言われる時期は掲示の次の週』
書いてから、しばらくその一行を見ていた。
これは、事実ではない。事実から引いたものだ。エリシアは事実だけでいいと言った。だから、消そうかと思った。
消さなかった。
消さない理由は、自分でも分からない。ただ、消したら、四か月書いた意味が半分なくなる気がした。事実だけを並べた頁は、読み返しても何も言ってこない。あの一行だけが、彼女に向かって何か言っていた。
春、王国評議会に差分の件が議題として載る、という話が学校まで届いた。届いたのは、校長が新聞を取っているからだ。生徒には関係のない話だった。
関係のない話のはずだった。
その週の終わり、ハルフェン本部から人が来た。エリシア・フォン・ルーヴェルではない。痩せた、三十半ばくらいの女だった。名乗った。クレア・ミルトン。
「一覧の追記に伺いました」
彼女は言った。校長にではなく、廊下のほうを向いたまま言った。
「改善している。呼ばれ方は変わっていない──と書いた欄です。半年経ちましたので、その後を書き足しに来ました」
イルゼは、廊下でその話を聞いていた。聞いていて、気づいたら、前に出ていた。
「私が書きました」
クレアが、振り向いた。生徒に用がある顔ではなく、名乗った者の名を先に確かめる顔だった。
「何を、でしょうか」
「呼ばれ方です」
イルゼは、上着の内から綴りを出した。四か月分、少し膨らんでいる。角が擦れて、丸くなっていた。
「四か月、書きました。いつ、どこで、誰に、どう言われたか。事実だけです」
クレアは、綴りを見た。受け取らずに、見た。
「拝見しても」
「いいです」
クレアは、頁をめくった。速い。一頁を数秒で読む。写字所で鍛えた目だった。
三分の一ほど進んだところで、彼女の手が止まった。
紙の端の、一行。
『言われる場所は三つ。言われる時期は掲示の次の週』
「これは」
「それは、事実じゃないです」
イルゼは、慌てて言った。指摘されたわけでもないのに、先に取り消しに行っていた。
「事実だけって言われたのに、書きました。消したほうがいいですか」
「いいえ」
クレアは、顔を上げた。
「これは、いちばん要る一行です」
「……なんでですか」
「事実だけを集めても、判定は動きません」
クレアは言った。
「動かすのは、事実と事実のあいだにあるものです。あなたは、掲示と呼ばれ方のあいだに、線を引きました。この線が引ける人は、四か月書いた人だけです」
イルゼは、その説明を、半分も理解できなかった。ただ、褒められているらしいことは分かった。
「これを、どうしますか」
クレアが訊いた。
「どうする、って」
「私が一覧に書き写して、出典を『民間集計』とすることもできます。名前は出ません」
「それは、嫌です」
即答だった。自分でも驚くほど速く出た。
クレアは、驚かなかった。名前を出さないという選び方を、二年やってきた側だった。
「では、どうされますか」
イルゼは、綴りの一枚目を開いた。いちばん上の欄に、半年前に書かれた一行がある。エリシアが、彼女の目の前で書いたものだ。
『責任者:イルゼ』
その下に、四か月ぶんの事実が並んでいる。全部、彼女が書いた。誰にも見せなかった。誰にも直されていない。
「二年前、私は」
イルゼは言った。
「私は、その数字じゃない、って言いました」
「伺っております」
「そのとおりでした。あれは、私の数字じゃなかったです。誰かが測って、誰かが並べて、誰かが順番を付けた数字でした」
彼女は、綴りを閉じて、両手で持った。
「これは、私が書いた数字です」
クレアは、その言葉を聞いて、しばらく動かなかった。それから、鞄から白紙を一枚出して、その場で書いた。
『一覧 二十三件目 学校区・教育分野』
『その後:当事者による記録あり。四か月。出典は当事者本人』
書いてから、いちばん上の欄を空けたまま、イルゼのほうへ向けた。
「ここは、私が書く欄ではありません」
イルゼは、ペンを受け取った。書き慣れない手つきで、自分の名前を書いた。
二度目だった。一度目より、少しだけ速く書けた。
書き終えてから、彼女はその紙をクレアのほうへ押し戻さなかった。しばらく、自分の手元に置いていた。
「持っていっていいです」
やがて、そう言った。押し戻すのに、それだけの間が要った。
「一つ、伺っても」
クレアが訊いた。
「この一覧に、あなたの前は二十二件あります。全部、あなたと同じように外された先です。読みたいと思われますか」
イルゼは、少し考えた。
「読んだら、どうなりますか」
「どうにもなりません」
クレアは、正確に答えた。
「ただ、二十二件ぶん、自分だけではないと分かります。それが役に立つかどうかは、読む人によります」
「事実だけ」と言われて事実でない一行を書き、消さなかった。その一行を書いた人が主役の回です。「私は、その数字じゃない」からここまでは、彼女が書いたのでこうなりました。王国評議会が次の回です。説明に立つ局長は、局が一致していないという数字から読み上げます。ブックマークと評価は、出典を「読者本人」として頂きます。




